君と染むる日々

ススム | モクジ

 ようやく桜が満開を迎えたというのに、今日は朝から強い雨が降っている。校門の内側にある二本の桜の木は、濡れて花の色が濃く見える。全体に重たげな様相だ。
 ぱしゃり、と足の先が水溜まりを踏みつけて水を跳ねた。きっとズボンの裾が濡れてしまっただろう、宇梶基己うかじもときはちょっと顔をしかめた。
 雨で散った桜の花弁が、水溜まりを染めている。儚さ、潔さの代名詞とされる桜花。地面に散って踏みつけられてさえ、何処か美しさを感じるのだから不思議なものだ。
 校門をくぐると、左側の桜の木の下に一人の女子生徒が立ち尽くしていた。桜の花弁が降り積もったような薄いピンク色の傘をさして、ただその木を仰いでいた。
 セーラー服のリボンが臙脂色なので、一年生とわかった。男子生徒は一様の学生服だが、女子生徒は学年によってリボンの色が異なるため、すぐに学年が判別できる。今年は、一年生が臙脂色、二年生が深緑色、三年生が紺色だ。
 基己は何故か、目を逸らせないでいた。
 傘の陰で、少女の顔立ちや表情は見えない。白い頬と、真っ直ぐに伸ばされた黒髪だけが覗く。
寿々すずー!」
 雨天の陰気をふきとばすような明るい声が、その少女を振り返らせた。――そうして、視線がかち合った。
 眉の上で切り揃えられた前髪が、少女の円い瞳を強調している。彼女は基己をまっすぐに見て、確信を得たように微笑んだ。
「待ってて、日菜ひなちゃん」
 寿々と呼ばれた少女は、駆け寄ってきた友人にそう声をかけ、基己の方へ迷いなく歩み寄ってきた。
 基己は戸惑いながらも、足を動かせなかった。自分よりも頭一つ分くらい背の低い彼女をただ見下ろすばかり。
「貴方のこと、知ってるわ」
 可愛らしい幼げな容貌のわりには、アルトの響きを含んだ声音だった。
「え……?」
 基己は、彼女に何の面識もなかった。二つ年下ならば、中学校が同じであれば知っていると思う。しかしそんな覚えも全くない。
 彼女は小首を傾げ、婉然たる笑みを浮かべた。

「貴方の名前も、何も知らないわ。……でも、確かに知ってるの。此処で出逢うべきだったの、わたしたち」



「へー、それは朝から大変だったなあ」
「何だよ、その他人事ひとごと丸出しな発言……」
 基己はがっくりと項垂れた。
 朝のホームルームが終わり、一限目が始まるまでの十分間の休憩時間。クラス替えがあったばかりだが、もうずいぶん打ち解けた雰囲気になっている。
 窓枠にもたれて聞き役を務めていた白井博人しらいひろとは、基己の中学時代からの友人である。お互いがさばさばした性格なので気の置けない間柄となり、長く親交が続いている。高校一、二年は違うクラスだったが、三年になって同じクラスになった。幸先が良いと思っていたところで、今朝の突飛な出来事である。
「でもさ、基己。それって喜んでいいんじゃねえの? まあ多少変わった感じだったとは言え、つまりは“告白”ってことだろ、それって」
「は……?」
 意表を突かれた様子の基己に対し、博人はいやに確信めいた物言いをする。
「そうだろ? 『此処で出逢うべきだった』って、要は彼女は基己に逢いたかったってことじゃんか」
「え、ちょっと待て、博人。何処をどう解釈したらそうなるんだ?」
 基己は眉根を寄せ、露骨に不可解な表情を見せている。
 博人にとって基己は至極気の合う良い奴なのだが、いかんせん恋愛事に疎すぎるのが欠点だ。高校生といえば思春期真っ只中、男友達同士でも恋愛話というのは一大関心事である。しかし基己は全くと言って良いほど興味がないようで、何組の誰それが可愛いだとか誰かと誰かが付き合いはじめたとかいう話題を聞いても、たいてい「ふーん」で片づけてしまう。そんな基己に、彼女の様子ぶった台詞を理解しろというのは無理がある。
 しかしながら、彼女はなかなかの強者である。面白い。ぜひ会ってみたい。
「お前が理解できなくてもそうなんだよ。……で? 一年生だよな。何て名前の子?」
「知らない」
 あまりにそっけない返事なので、危うく聞き逃すところだった。
「……知らない?」
 今度は博人が驚く番だ。
「ああ、言いたいことだけ言ってそのまま。そもそも向こうも、俺の名前も何も知らないなんて言ってたし。絶対からかわれただけだろ……」
 深いため息が彼の口から零れ、もうこの話題はお終いかと思われた。しかし、基己はふと顔を上げた。
「名前……そういや友達か誰かに呼ばれてたな。……すず、だったか……何か単純な名前だった」
 それは重大な手がかりだ。博人はよっしゃ、と叫ぶ。
「すず、だな? オッケー、名前さえわかれば充分だぜ。すぐに正体突き止めてやる!」
「放っとけよ、博人。俺は二度と関わり合いになりたくないぞ」
 顔を顰めた基己の背中を、博人は勢いよく叩いた。
「バーカ、こんな面白いネタをみすみす逃す手はないだろうが! 俺が興味あるんだよ、基己に惚れた物好きな子にさ!」
「だから違うって言ってんだろ……」
 うんざりした基己の呟きと重なって、一限目の始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。



 昼休みになると、博人は教室を飛び出して購買に向かった。おにぎりや総菜パンは数が少なく、早々に売り切れてしまう。ちょっとした戦争である。
 何とかおにぎり二つとコーンマヨネーズパンを手に入れて教室へ戻る途中、博人が所属する水泳部の顧問である中嶋の姿を見つけた。確か、中嶋の受け持ちクラスは一年生だった。『すず』に関する情報が手に入るかもしれない。
「先生、おはよーございまーす」
「おう、白井。今日はグラウンド練習だぞ」
 部活の予定を訊きに来たと思ったのだろう、練習場所を教えてくれる。
「あ、そうじゃないんです。訊きたいことがあって」
「何だ? 悪いが先生に勉強のことは訊くなよ」
 中嶋は三十代前半の体育科教師だ。水泳が専門だからなのか地なのか、浅黒い肌をした屈強な体格の持ち主である。
「体育の先生にわざわざ訊きませんよ。先生、一年生のクラス担任ですよね? 俺、人を捜してるんですけど。『すず』って名前の子、一年生にいませんか?」
「すず? ああ、うちのクラスにいるな」
 あっさり答えに行き当たり、博人は驚喜した。
「マジですか! 先生、何組の担任ですか? その子の苗字はっ!?」
「何だ白井、やけに一生懸命だな」
 やや勢いに気圧された様子の中嶋を見て、博人は少々冷静さを取り戻した。
「いや、あの、ちょっと友達と関わりがあって……」
「何だ、一目惚れでもしたのか? まあ確かに可愛い顔した奴だけどな」
 特に気に留めたようでもなく笑って、中嶋は答えを教えてくれた。
百瀬寿々ももせすず。一年D組だ」


 一方、弁当持参の基己は、ちびちびとおかずに箸をつけながら博人の帰りを待っていた。
(あいつ……本気で捜すつもりじゃねーだろうな……)
 思い込んだら一直線、のきらいがある博人をよく知っているから、基己はふつふつと嫌な予感を感じた。
(勘弁してくれよ……)
 額に手をあて、基己は深くため息を吐く。
 ふと、濡れそぼった桜の下で振り返った少女の顔が鮮明な色合いで脳裏に蘇った。黒目がちの真っ直ぐな瞳で見据えられて、思わず雰囲気に呑まれてしまっていた。そりゃあ、そこそこに可愛らしい容姿だったとは思うが……。
(関係ないっ! 関係ないぞ俺は!)
 浮かんだ映像を打ち消すようにぶんぶんと頭を振った。
「宇梶ー! お前に用があるって子が来てんぞー」
 クラスメイトの呼ぶ声に顔を上げ、ドアの方へ顔を向ける。
 柱の陰から顔を覗かせたのは小柄な女子生徒だった。誰だっただろうかと少し考え、彼女の身につけている臙脂色のリボンを見て思い至った。――今朝、あの少女へ駆け寄っていった友人らしき生徒だ。
(うわー……逃げてえ……)
 心の中で叫べども、クラスメイトが多数見ている前で無視を決めこむことなどできないし、博人もまだ戻ってくる気配がない。
 基己はしぶしぶ立ち上がり、彼女の許へ足を運んだ。彼女は基己を見るなりぴょこんと頭を下げた。
「突然すみません! わたし、一年C組の市川日菜子と申します。ええっと、三年B組の宇梶基己先輩……ですよね?」
「そうだけど」
 日菜子と名乗った女子生徒は、スカートのポケットから小さな手帳を取り出して広げた。
「わたし、新聞部の新入部員なんです。今、『全校抜き打ちアンケート』を実施していて、ご協力願いたいのですが……」
「は……?」
 全く異なる用件を持ち出されて、基己は呆気にとられた。けれども、『全校抜き打ちアンケート』なるものは何だか口実くさくて怪しいような気も起こった。
「それって拒否権ある? 時間かかるようなことは嫌なんだけど」
 彼女はわずかに視線を泳がせたが、次の瞬間、がしっと両手で基己の手首を掴んできた。
「お時間はかかりません! すぐ終わりますから、お願いします! ちょっと来てくださいっ」
「うわっ、ちょ、引っ張るなよ!」
 基己は半ば引きずられるようにして、中庭の渡り廊下まで連れて行かれた。
「用件があるならさっさと済ましてくれないか。……アンケートなんて口実だろ?」
「やっぱりバレましたか……。いい手だと思ったんですけど」
 でも新聞部なのは本当なんです、と日菜子は笑った。
「嘘を吐いてすみません。本当は、先輩のことを調べにきました。寿々が自分から興味を示した人なんて初めてだったので、うずうずして堪らなくなったんです」
「調べ……? 興味って……? すず……って、あの、朝の子?」
 恋愛事に疎い基己にとって日菜子の言葉の裏側を汲み取ることは難しく、理解できずにしどろもどろになってしまう。日菜子はその様子をみて、何となく基己の性質を察したようだった。
「うーん……これはなかなか遣り甲斐のある仕事みたい……」
「はぁ?」
「あ、いえっ、独り言です!」
 日菜子は、思いを言葉にしていたことに気づいて慌てて手を振った。
「朝、先輩に話しかけた子ですけど、百瀬寿々って言います。わたしの幼馴染みで、親友です。先輩と話してみたいって思ってるようなので、もし逢ったら話してあげてくださいね。じゃあわたしはこれで! また来ます!」
「また来るって……!? ちょっと!」
 制止の声にも振り返らずに、日菜子はたったと校舎の中へ駆けて行ってしまった。
 寿々という今朝の少女が自分と話したがっているらしい、というのは日菜子の台詞から読み取れたが、それで何故本人が直接来ずに友達である日菜子が来たのかが基己にはわからない。しかも言いたいことだけ言って去ってしまうし、基己は振り回されっぱなしだ。
「今日は厄日か何かかよ……」
 彼の口からは深いため息が漏れた。



 雨が屋根を叩く音が、格技場に響き出した。昼前から止んでいたのに、また降り出したようだ。
「基己ー、先帰るぜー」
「おう、お疲れー」
 畳の上でクールダウンをしている基己に、制服に着替えた友人が声をかけて帰って行く。
 基己の所属している柔道部は少人数で、三年生は基己を含め三人、二年生が四人の合計七人で、全員男子である。実績があるわけでもないのだが、皆柔道が好きでやっている生徒ばかりなので先輩後輩の仲が良く、雰囲気はとても良い。五月に入ると部活の仮入部が始まるので、もう少し人数が増えてほしいところだ。
 じゃんけんで負けて主将を務めることになった基己は、いつも最後に格技場の戸締まりをしてから帰ることになっている。部活の花形であるサッカー部や野球部、バスケ部にバレー部などは女子マネージャーの希望が殺到するらしいが、柔道部には全く関係のない話である。
 格技場の片隅でそそくさと着替えて、錆びかけた扉をガタガタ言わせながら閉めて施錠する。これから鍵を職員室に返しに行ったら基己の仕事は終了だ。
 そこでふと、手許に傘がないことに気がついた。教室前の傘立てに入れたままだ。少し面倒だが仕方がないので、三年B組の教室まで回ってから帰ることにした。
 職員室はまだ皓々と電気が灯っているが、教室の並ぶあたりはほとんど真っ暗だ。幸い、三年B組は一階の教室なので階段を上る手間はない。教室前の傘立てには何本かの傘が残っており、自分のビニール傘の判別ができなかった。悩んでも仕方がないので、何となくこれかな、と思ったものを抜き取る。
 ぶらぶらと傘を揺らしながら昇降口へ辿り着いて靴を履き替えていると、ひさしの下で誰かが立ち尽くしているのに気付いた。靴箱の陰からスカートがのぞいて、女子生徒だということがわかった。傘を持っていないのだろうか。男子生徒ならば傘がなくても駅まで走っていけるだろうが、女子生徒だとそれはつらいのだろう。
 女子生徒の顔を見ようとして、基己はぎくりとした。――その顔に見覚えがあったからだ。
(げ……っ)
 彼女はまさしく、今朝から基己に厄をもたらしてくださった元凶、百瀬寿々であった。
 慌てて顔を背けたがすでに遅く、彼女は首をこちらに傾げて基己の姿を認めていた。
「――宇梶基己さん」
 寿々ははっきりと基己の名前を発音した。ともすれば無感動に聞こえる淡々とした声音だが、不快ではなかった。
「俺の名前……」
「日菜ちゃんが教えてくれたの」
 基己に向けられていた彼女の視線がすらりと逸らされる。その先を追うと、閉め切られた裏門の脇で雨に濡れそぼっている桜の木に辿り着いた。
「桜が好きなのか?」
 彼女が今朝も桜を眺めていたことを思い出して問う。
「……雨に降られている桜が好きなの。晴れの日の桜は見ないわ」
 そうして寿々はまた、視線を桜の木へと戻した。
 何とはなしにそんな彼女をぼうと見つめていて、一呼吸後に基己は寿々のペースに巻き込まれていたことに気づく。しかも自分から話しかけたりしてしまった。
(何やってんだ、俺……)
 細くため息を吐くと、再び寿々の視線が基己へと向いた。
「帰らないの?」
 基己は少し考えてから、「君は?」と訊ねた。見たところ、寿々は傘を持っていない。
「傘、盗られちゃったみたいで……もう少し、止むか小降りになるのを待つつもり。雨も、待つのも嫌いじゃないから」
 そういえば朝はピンク色の傘を持っていたなと思い起こした。大方、傘を持って来ていなかった誰かが拝借していったのだろう。雨の日にはよくあることだ。
 傘のない女の子を放ったらかして帰れるほどの神経は、生憎持ち合わせていない。基己は傘を差して、寿々の方へ少し傾けた。
「嫌じゃなければ……入って行くか? 俺は駅まで行くけど」
 関わり合いになりたくないと思っていたはずなのだが、成り行き上仕方がない。これで断られたら気まずいなと思いながら、基己は返答を待つ。
 寿々はこちらを見上げてくる瞳に笑みを浮かべた。
「宇梶さん、思っていた通りの人ね」
 それはどういう意味なのか問い返そうとしたが、寿々がすぐにぺこりと頭を下げて「お言葉に甘えて、駅までお願いします」と言ってきたので、その質問は流れてしまった。

 ――でも、確かに知ってるの。

 ――此処で出逢うべきだったの、わたしたち。

 あの時、寿々の口から発せられた言葉が基己の脳裏に蘇った。
 基己と寿々は今日が初対面でこれまでに出逢ったことなどないはずで、それは寿々も認めているようなのに、彼女はそれとは逆のことも一緒に仄めかしている。それが一体どういうことなのか基己にはよくわからないし、あまり深く考えたくないとも思った。
 傘の恩恵を受けられるように寿々が体を寄せてきたのを確認して、基己は足を踏み出す。水溜まりの端を踏んづけて、水面に積もった桜色を揺らした。


「読んだよ!」の記念に是非。メッセージも送れます。



ススム | モクジ
Copyright (c) 2008 Aoi Tsukishiro All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-