― 関西弁シリーズ ―

モクジ

  アフタースクール  



 陸上部のジャージに着替え終えた園部昌尚そのべまさひさは、いつものように首にタオルを引っ掛けて二年二組の教室を出た。
 現在、学園祭の準備期間真っ只中。廊下は準備物や備品で溢れていて、いつもより雑然としている。教室に収まりきらず、廊下で作業をしている生徒の姿も多い。
 この期間、部活動は基本的にはない。グラウンドも体育館も学園祭の装飾が施されるからだ。けれども昌尚は、放課後になるとグラウンドへ走りに行く。それは、クラスでは既に暗黙の了解事であった。一時間ほど走り込み、また教室に戻って準備を手伝うのだ。
 ひょいひょいと廊下に転がる品々を避けながら、昌尚は階段を目指す。
「おっ、まぁさ!」
 階段の傍にいた一人の男子生徒が、昌尚に向かって軽く手を上げた。
「浅野」
 中学時代からの友人、浅野有樹だ。
 有樹はリーダー性が高く、常に生徒達の真ん中にいるようなタイプでとにかく目立つ。おそらく、高校全体でも有名人の部類に入るだろう。
 昌尚は全く別のタイプだ。性格は真面目で温厚、寡黙。良くも悪くも目立たない。けれども、彼も有名人ではあった。
 陸上部において、華々しい記録を持つスプリンターだからだ。
 県大会では必ずベストスリーに入り、地方大会出場の常連。昨年は、あまり芳しい成績を残せなかったとは言え全国大会にまで出場した。まだ二年生であるにも関わらず、既に幾つかの大学から推薦の話が来ていると言う噂まである。
 しかし、そんな話題があることすら感じさせないほどに、昌尚は朴訥とした自分を貫いていた。
「お前また、体育祭のリレー選手辞退したんやなあ。まぁさらしいと言えばそうやけど、つまらんわ」
 まぁさ、と言うのは昌尚の愛称である。小中学校の同級生はだいたい、いまだにこの呼び方で呼ぶ。
「浅野と走るのは楽しいけどな……。ああいう雰囲気は、苦手や」
 昌尚はぼそりと呟く。
 そもそも彼は、自分から目立つことが苦手なのだ。
 ただ、走るのが好きなだけ。風をきって走る、その音が、感覚が、好きだから走っている。そうしたら速くなった、それだけ。
 競技の時は緊張を極限にまで高めた状態でいるので、周りの歓声なども全く気にならない。けれども、体育祭となると……賑やかすぎる。そして、どれほどの力で走るものなのかが分からない。おそらく適当に手を抜きつつ負けないように走るのだろうが、不器用な昌尚には“適度に手を抜く”ことが出来ないのだ。
 だから昌尚は、去年も今年もリレーを自ら辞退していた。
 有樹は笑って、昌尚の背中をバシンと叩いた。
「わかってるって! また陸上部に乱入するから、その時はヨロシク。主将はご立腹やろけどな」
「あぁ……」
 思わず苦笑が漏れるのは、陸上部の主将と有樹の折り合いが良くないからである。
 中学生時代、二人は陸上部に所属する短距離選手であった。
 昌尚も、有樹自身さえも覚えていないそうだが、この主将はその頃に、とある大会の百メートル走で有樹に負けたらしい。彼はそれを今でもよく覚えていて、有樹が陸上部の練習を冷やかしに来る度に何かしら口を挟んでくるのだ。「遊び半分で来るな、練習の邪魔や」とか、「そんなに走りたいんやったら何で部活やってへんねん」とか何とか。有樹がやって来るのは必ず昌尚の休憩時間であるし、文句を言われる筋合いはないから素知らぬ振りをしているけれど。
「そうそう、お前は出ーへんけど、今年のリレーは面白くなりそうやで。ちょーっと負けたくない奴がおるからな、本気出したろかと思って」
「へぇ……?」
 自分の気が向いた時にしかやる気にならない有樹が、随分と楽しそうだった。珍しいな、と昌尚は思う。
「年下に負けるんは癪やし。まぁさと走って腕慣らししたいねん」
「今からやったら、自主練だけやから時間あるけど」
 有樹は「マジで?」と声をあげたものの、すぐに考え込む仕草を見せた。
「あー……でも、あかんかな、多分。もうすぐ恐怖のお出迎えがやってくる気がするからな……」
「気がする、やないで。もうそこまで来てる」
 階段を上ってきた、有樹の友人である清水仁志がぬっと有樹の肩越しから顔を出した。
「うわっ! 仁志、びっくりさせんなよ!」
「ひどい言い草やなあ。せっかく忠告したってんのに。お前の言うところの“恐怖のお出迎え”が来るって」
「げっ……」
 仁志とも中学時代の同級生ではあるが、昌尚と個人的な付き合いはない。有樹の友人としてお互い面識がある程度だ。
 それにしても、“恐怖のお出迎え”とは何なのだろう、と昌尚が考えていると。
「浅野ーっ! 楽しい楽しい衣装合わせの時間やでー!」
 階下で、一人の女子生徒が衣装を持った手を大きく振っている。二年一組の勝見唯、という名前だけは知っていた。
 仁志はぽんと有樹の肩に手を置いた。
「行って来い。……一年の教室は凄いで、ギャラリーが。覚悟しとけよ」
「うーわー……何でいちいち一年の教室でやるねん……」
 がっくり肩を落とす有樹に対し、すでに解放された仁志は清々しい笑顔である。
「まぁさ、そう言うことやから。また今度の機会に」
 そう言えば有樹は応援合戦の二年生リーダーとして名前が上がっていたな、と昌尚は記憶を辿る。応援合戦は学年別リレーと並ぶ体育祭の華。さすが有樹は多忙である。
「俺はいつも、この時間に自主練してるから。いつでもぃや」
「おう。サンキュー」
 有樹は片手を上げて、たったと階段を下りてゆく。唯が「早くー!」と急かしている。
 昌尚もそれに続いて階段を下りようとすると、「園部」と仁志に呼ばれた。振り返ると、仁志は少し唇を持ち上げた。
「自主練、頑張れよ」
「……ありがとう」
 敢えて自分からは交友関係を広げようとしない昌尚にとって、こうして声をかけてもらえることはありがたくもあり、少々気恥ずかしくもあった。
 けれども仁志に倣ってゆるく笑みを浮かべてから、グラウンドへ向かった。


     *        *        *


 にわかに、耳をつんざく歓声が廊下で沸き起こった。
 直後バタバタと盛大な足音が聞こえ、一人の女子生徒が一年三組の教室に走り込んでくる。
「二組でっ、浅野先輩の衣装合わせやってるっ!! 清水先輩もいるでっ!!」
 ざわっ、と教室内の女子生徒らが一斉に色めきたった。
「うそぉーっ!!」
「見に行かなっ!!」
 一瞬後にはもう、教室内に女子生徒の姿はほとんどなかった。
「……ホンマ、阿呆らし」
 窓枠に頬杖をついた啓太が毒づいた。貴紀は黙って、我関せずと肩をすくめる。機嫌の悪い啓太は、熱が冷めるまで放っておくに限るからだ。
「まあまあ、大目に見てあげたら? 高一女子のミーハーなんてすぐに冷めるんやから」
 妙に達観した答えが返って来たので、啓太も貴紀も思わず振り返った。
 今野こんのかおり。
 クラスメイトの一人である。
 セミロングの髪を常に二つ結びのお下げにしている彼女は、窓枠に寄りかかって外へと視線を向けていた。
「今野は興味ないんや? ああいう奴」
「うん。ちやほやされてる人は好みとちゃうし」
 啓太の問いに、かおりはスッパリと言い切った。彼女は普段からはきはきと物を言うので嫌味がない。
 同志を見つけた啓太の表情が少し晴れた。
「いいこと言うなぁ、今野」
 その声音にはいやにしみじみと気持ちが篭もっていたので、かおりは思わず苦笑する。
 彼が、かの有名な二年一組の浅野有樹を毛嫌いしていることを知っているからだ。
 意識してそうしているのではないだろうが、啓太は自らの感情をいたく素直に表現する。かおりのように勘の良い生徒ならば、彼を少し観察するだけでわかることだった。それがどうやら恋愛に関係しているだろうことも、その相手が誰かということも。
「どういたしまして。わたし個人の感想やけどね」
 かおりはそう言うと、すぐに窓の外へ視線を戻した。
 一年三組の窓からの眺めは、はっきり言って良くない。一階だからと言うこともあるし、図書室のある第三棟や体育用具倉庫などに隠れてグラウンドの片隅しか見えない。それなのに、かおりは熱心に外を見つめている。
「今野は誰か待ってるんか?」
 貴紀が訊くと、かおりは意外、というふうに目を瞬かせた。
「そういうわけじゃないけど。何で?」
「さっきからずっと、窓の外気にしてるから。誰か来るのを待ってるんかと思って」
 よく見ているな、とかおりは思った。
 野分貴紀は掴みどころのなさそうな雰囲気があるが、案外よく気がつくのかもしれない。クラスでの振る舞いを見ていると、同性にも異性にもそれなりの態度を取り、柔軟なので敵はほとんどないようだ。世渡り上手、というのがかおりの印象だった。それに対して森啓太は、良く言えば一途、悪く言えば頑固で視野が狭く、感情的になることも多い様子。あまり共通点を見出せない二人ではあるが、常に一緒に行動している。凸凹だからこそ、バランスが取れているのかもしれなかった。
「……待ち合わせてるわけじゃないねんけど」
 かおりは二人に向けて口を開いた。
「ここからある人を見るのが、わたしの日課やねん」
「へぇー! 憧れの先輩とか、そんなん? えーと、今野って何部やったっけ?」
 啓太は興味津々で問いかける。彼は噂話など好きなようだから、姉妹がいそうだなどとかおりは勝手に想像した。
「陸上部。マネージャーやけど」
「あ、そうなんや。そういえば、グラウンドで見かけたことがあったような……。陸上部の先輩か……どんな人がいたかなぁ……」
「探っても面白味も何もないと思うで? どうせわたしの一方的な片想いやし」
「いいやん、同じ部活やろー! これからいくらでも接点あるやん」
 いつの間にやら意気投合している二人を尻目に、貴紀はこっそり溜息を吐く。恋愛話とは、こうも開けっ広げにするものなのか……彼にとっては些か疑問である。
「あ!」
 かおりが声を上げる。啓太も貴紀も、彼女の視線の先を見遣った。
 陸上部の紺色のジャージを着た人影が、片手にライン引き、もう片方の小脇に大きな巻尺を持って視界の端を掠めて行った。
「ああ、あの人……二年の……園部先輩、やったっけ? めっちゃ短距離速い人やろ?」
 啓太の発言を聞いて、貴紀も名前だけは聞いたことがある、と思った。
「うん」
 かおりは壁にもたれていた体を起こし、ぴょんと一歩前に飛んだ。
「わたし、ちょっと先輩のとこ行ってくる。作業は一時中断やろ?」
「そうやな。好都合なことに」
 貴紀が笑って言う。取り組みに対してのらりくらりとかわしつつの彼であるから、心なしか嬉しそうだった。
「あっ、今の話は他言無用な!」
「わかってる、わかってる」
 頑張れよーという啓太の声援を背中に聞きながら、かおりは教室から駆け出した。


     *        *        *


 昌尚はスターティング・ブロックに足を置き、地面に軽く両手をついた。
 目を閉じる。
 現在、グラウンドの真ん中ではどこかの団が応援合戦の練習をしている。音の割れたカセットテープの音楽が響いている。
 耳元に風を感じた。
 その風に、集中した思いと身体を委ねる。
 目を開き、腰を上げ、一気に地面を蹴った。
 百メートルはあっという間だ。走っている間何を考えているのか、と聞かれることがあるけれど、「何も考えていない」が昌尚の答えだった。頭の中は真っ白である。
 ゴールのラインを踏んだのを確認すると、徐々にスピードを緩めていって立ち止まった。
 やはり、一発目の走りは少し硬い。自分の思い描くスタートにはならなかった。
 昌尚は張り詰めた気を抜くように、ふうっと大きく息を吐いた。
「園部先輩」
 ぐいと額の汗をTシャツの袖でぬぐったところへ、声がかけられた。
 聞き覚えのある声だと思ったが、昌尚は振り返るまでそれが誰だかわからなかった。
 しかし、同じ部活の後輩の名前はさすがに覚えている。一年生マネージャーの今野かおり、だ。
「こんにちは」
「……こんにちは」
 挨拶を交わしただけで、昌尚はすぐに踵を返してスタート地点へと戻る。
 練習中は誰も寄せ付けない。それを知っているかおりは、ただ彼を見送る。じっとその背中を追う。
 見つめているだけで幸せなのだ。何度見ても飽きない。
 無駄のないスタートダッシュ。綺麗なフォーム。風を巻き込んで自分の前を通り過ぎてゆく彼を見ているのに、瞬きをすることすら惜しいくらいだった。
 それから数度走った昌尚は、さきほどよりもいくらか和やかな表情になっていた。納得のいく走りになったのだろう。
 すぐ傍の体育倉庫の陰へ歩いてゆき、かがんでコンクリートの上に置いておいたタオルと清涼飲料水のペットボトルを取り上げる。
「先輩の走りは、いつ見ても綺麗ですね」
 一口喉を潤して、昌尚はかおりを見下ろす。まっすぐに注がれる視線がこそばゆい。
「……ありがとう」
 会話はすぐに途切れる。それでも、かおりは平気だった。彼がこういう人だとわかっているから。
「先輩、独りで練習していて寂しくないですか?」
 だから、かおりは自ら進んで会話を振る。この時ばかりは、おしゃべり好きな性分で良かったと思う。
「……別に……」
 昌尚は、少し首を傾けた。
「ただ……張り合いはない……な。練習相手がいーひんから」
 昌尚は有樹を思い浮かべながら言った。あの言いようだと、体育祭当日までには必ず来るだろうが、いつになるかわかったものではない。
 それを聞くと、ぱあっとかおりの表情が明るく輝いた。
「じゃあ! わたし、これから見に来ていいですか!?」
「え……?」
 昌尚は呆気にとられたようだった。あまり大きくない目の、白い部分がいつもより多く見える。
「さすがに、練習相手にはなれませんけど……! わたし、暇してるんです。何でも手伝いますからっ!」
「いや……でも、これは俺が好きでやってることやし……。わざわざ、マネージャーさんが来るようなこともない……」
「遠慮しんといて下さい!」
 しどろもどろに切り返す昌尚に対し、かおりは勢い込んで大きな声を張り上げた。
「マネージャーやからじゃないんです。わたしも、好きでやりたいんですっ!!」
 こうも言い切られてしまっては、もともと話下手な昌尚のこと、うまくあしらうことはできそうになかった。
「じゃあ……そんな、することないと思うけど……」
「構いません! わたし、先輩の走りを見てられるだけで十分です!」
 その時、ぶわっと強い風が吹いて、昌尚が首にかけていたタオルが舞い上がり、数メートル飛ばされてグラウンドの砂の上に落ちた。
「あー……」
 昌尚が少々肩を落としてタオルを取りに行こうとすると、かおりがぱっと飛び出して行ってそれを拾い上げた。
「わたし、新しいタオル取ってきますっ! ついでにこれ、洗っときますねっ!!」
 止める間もなくかおりは駆け出して、すぐにその背は校舎の陰に隠れて見えなくなる。
 しばらく呆然としていた昌尚だったが、いかにも困り切った表情で頭を掻いた。
モクジ

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