ガーデニア



 薄雲のかかる空の下、クラークは城内に設けられた研究施設の傍にある庭園の敷石を歩いていた。
 この国――自由国家オープエン特有の、湿気を多く含んだ風がゆるゆると吹きつける。心地良いとは言えぬが、大分慣れた。曇り空の下でも目映く光る白金色プラチナ・ブロンドの髪がかすかになびく。長めの前髪が揺れる奥には薄青色の瞳が在る。
 ふと、甘い芳香が鼻腔をくすぐった。香水のようにつんとくる匂いではなく、やわらかく癖がないのに酷く甘い香りだ。
(何処から……?)
 クラークはそっと、切れてしまいそうな糸を手繰るように、その匂いを辿った。そろりそろりと歩を進める。少しずつ、匂いが強くなってくる。
 クラークの歩く敷石の両側には数え切れぬほど色取り取りの花が咲いているが、そのどれでもない。
 辿り着いた先は、庭園の端。芳香の主は、其処に植わった低木だった。
 薔薇ローズに似た、幾重にも重なった大振りの花弁は透き通る白。清楚な佇まいからは考え得ぬほどの、圧倒する強い芳香。まるでバニラ・エッセンスを鼻の間近で嗅いだような衝撃がある。
 それは、クラークの出身国では見たことのない花だった。
「クラーク殿?」
 ガサガサと前方の草むらが揺れたかと思うと、庭園の向こうに広がる小さな森から一人の青年が現れた。
 濃い焦げ茶色の髪に、同色の瞳。動きやすい麻の衣服を身につけ、右手には小さなシャベルを持ち、腰にぶら下げた籠には何種類もの草花が入っている。
「こんにちは。クラーク殿がこんなところまでお出ましとは、珍しい」
「これは……オーシャ殿」
 オーシャ・ウィルブルク。
 オープエン出身の植物学者で、学問の為に留学して来たクラークにとても良くしてくれている人物である。人付き合いは得意でないが、歳も近く、人好きのするオーシャの人柄には親しみやすかった。
 自由国家と称されるくらいであるから、オープエンは外交が盛んだ。世界中の民がここに集う。彼らが持つ文化ともども。故に、オープエンは世界屈指の学術国なのだ。国を挙げて学問の向上に努めており、二人の他にも沢山の研究者達が施設に住まっている。クラークのように留学してきた研究者も少なくはない。
「クラーク殿は、植物にも興味をお持ちですか?」
 オーシャは人好きのする朗らかな笑顔を浮かべて問う。
「いえ、知識は全く……。あまりに印象的な芳香だったものですから……ついふらふらと、引き寄せられて来ました」
 興味、とも呼べぬ些細な理由だ。クラークは気恥ずかしく、軽く頭を掻いた。
「ああ……これは、クラーク殿のお国では見られませんでしょう」
 低木の傍にしゃがみ込み、オーシャは一輪の花を愛おしそうに撫でる。
「ガーデニア、と言います」
「ガーデニア……」
 クラークが鸚鵡返しに呟くと、オーシャはくすりと笑う。
「似つかわしい名だと思いませんか? この存在感のある芳香……庭園ガーデンに彩りを添える花として」
「ええ。……そう思います」
 クラークは頷いた。
 心を惹き付けられる芳香。
 それは、自身が心を奪われた「自由」という名の香りと似ていた。
「そして……このオープエンにも。似つかわしいと思います」
「……そうですか」
 オーシャは柔らかな表情を湛えている。
「遠い昔……大陸は一つの国でした。争いも諍いもなく、何の柵もなく……全てが自由でした。私は、此処で歴史を学ぶことにより、我が国を解き放ちたいのです。「自由」というものを知らない民に、私はその香りを知って欲しいのです」
 頑なに一民族の誇りに縋り付き、凝り固まってしまっている祖国、イクスルーヴに。
 新しい風を。
 咲き誇る自由を。
 イクスルーヴの貴族として生まれたクラークは、比較的恵まれた幼年時代を過ごした。きちんとした教育を受け、正当な扱いを受けてきた。しかしそれは、クラークがイクスルーヴの最大民族・デュール族であるからだ。広大な国土を持つイクスルーヴには多数の少数民族が住んでいるが、彼らの七割以上が国の保障する公教育を受けることすら許されていない。
 その現実が間違っていることを、クラークはオープエンに来てから改めて思い知った。此処では、民族や身分に関係なく五年間の公教育を受ける権利を持っているのだ。
 街の様子も歴然としている。様々な髪色、目の色、肌色の人々が行き交い、活気の溢れるオープエン。イクスルーヴでは、店への出入りにも民族による規制があるため、見かけるのはクラークのような白金色の髪、青い瞳の人々ばかり。繁華街を外れればごちゃごちゃとしたスラムが濫立している有様だ。
「ガーデニアは……現在のところ、我が国以南にしか生息していません」
 オーシャがゆっくりと口を開いた。
「私は、植物の改良についての研究をしております。風土に恵まれぬ土地にも、オープエンのように、色鮮やかな花々を咲かせたいのです。ですから、いつかきっと――イクスルーヴにも、ガーデニアを咲かせてみせましょう」
 イクスルーヴは冬が厳しい。春の半分以上は残雪が残っており、白、黒、茶の風景しかない。其処にこのような、美しい花々が咲く――それは想像しただけで心躍る光景だ。
「はい。楽しみにしております」
 ガーデニアは頷くように、ふるりと風に震えた。

(2008.6.16 改稿)



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