モクジ

● おもいで --- episode 3  スタートライン ●

 梅雨のあけた七月なかば。ゆるく吹く風はなまぬるく、つっと汗が一滴、頬を流れた。
 予備校から帰ってきた河田和輔かわたかずすけは、ため息をつきながら駅の改札を抜けた。ここから家までは、バスで二十分だ。
 午後十時過ぎの駅は、ぱらぱらとざわめきがある程度だった。ところどころ制服も見受けられるが、ほとんどが私服の人間ばかり。
 そのとき、ブルル、とジーンズの尻ポケットで携帯電話が震えた。着信メールを開く。同じ予備校に通う高校からの友人、村井孝治むらいこうじからだ。
【オレら、一本後の電車に乗ってるからそっちで待ってろよ! 飯でも食いにいこうぜ】
(そういえば腹減ったな……)
 そんなことを思いながら携帯電話をしまい、ふらりとまわりを見回した和輔は、ドキリとして目を留めた。
 見覚えのある、横顔。
 涼やかな奥二重の瞳。白い白い肌。髪は覚えているよりも長く、ゆるくパーマがかかっているけれど。
 安曇千星あずみちせ――。
 和輔は少し気まずくて思わず顔をそらした。つきあっていたことはないけれど、一時期二人は両想いだった時があった。知っている人は少ないけれど。あの頃から、あまりまともにしゃべった記憶がないのだ。
 もう一度ちらりと千星を伺うと、偶然千星もこちらに目を向けていた。
(げっ……)
 しまった、と思ったが遅かった。
「河田くん?」
 ふわぁと千星は微笑んで、和輔の目の前まで寄ってきた。
「久しぶり。元気そうだね」
「うん」
 和輔はふと、千星の鞄を見た。夏らしい大きめのカゴバッグを肩からかけていて、そこにぬいぐるみがぶらさがっていた。
 小さな白い犬のぬいぐるみ。白、というよりはもう、くすんだ灰色になっているようなぬいぐるみ。
 和輔は、じわりじわりと胸が締めつけられていくのがわかった。
 なぜなら、そのぬいぐるみを和輔は知っていたから。
 他でもない和輔自身が、千星にあげたものだったから――。



「くれるの?」
 こちらを上目遣いに見て、千星はそう言った。頬を赤らめて。
 高校一年生の頃、クラスメイト十数人が集まってクリスマスパーティをした時のことだ。買い出し組の数人で、買い物前にゲームセンターに寄った。その時UFOキャッチャーで取ったのが、その白い犬のキーホルダーだった。
「うん、やる」
 和輔はそう、ぶっきらぼうに答えたように思う。
 千星は、何がそんなにうれしいのかと思いたくなるほどきらめいた微笑みを浮かべて言った。
「うれしい。ありがとう、河田くん……」



「あ、暁くんっ」
 ふと、千星が和輔の向こうに視線をやって声をあげた。
 駅の階段を上ってやって来たのは、端山暁はやまあきら。高三の終わり頃から千星とつきあっている、和輔の部活友だちだ。
「おー、河田!」
 暁はやって来るなり、和輔の肩に腕を回してきた。
「久しぶり、端山」
「本当に久しぶりじゃん! 元気してるか?」
 暁は剣道部の元キャプテンで、多少強面ではあるがとても気さくで明るい性格をしている。和輔とはけっこう気が合う友人だった。
「まぁ、浪人だし勉強にプレッシャーはあるけどな。予備校はけっこう知り合いも多いし楽しんでるよ」
「そうかー」
 うんうん、と頷いていた暁は、駅の改札口にある時計に目を止めて声をあげた。
「十時半!? 千星、帰るか?」
 千星はにこにこ微笑みながら言った。
「久しぶりに会ったんでしょ? しゃべってていいよぉ、だって暁くん、車で送ってくれるんでしょ?」
 暁は苦笑を漏らした。
「まぁな、お前は危なっかしいから。ただ、遅くなるって連絡は入れとけよ」
「はぁーい」
 くすくすと楽しそうに笑いながら、千星は携帯電話を取り出してメールを打ち始めた。
 電車が到着したようで、改札口から滝のように人があふれ出してくる。そんな中に、孝治ら数人の友人たちの姿があった。
「河田! ……あれ、端山?」
「村井!? マジで久しぶりな奴ばっかだなー」
 暁は笑って、バシバシと孝治の背中を叩いている。
「オレら今から飯食いに行くけど、来るか?」
「おお、行く行く! 千星、大丈夫か?」
「うん、大丈夫。じゃあ、ご飯も食べて帰るって言わなきゃあ……」
「何か同窓会っぽいなぁ。ファミレスでいいよな、行くぞー」
 孝治のかけ声で、和輔たち六人はぞろぞろと歩き出した。



 食事が、メインからデザートやドリンクなどに変わる頃、高校の思い出話に花が咲き始めた。
「それにしても、端山と安曇さんって意外なカップルだよなー」
 ずるずるとアイスコーヒーを飲み干した孝治が、ふとそんなことを言い出した。
 暁と千星が顔を見合わせる。
「そうかなぁ? どうして意外なの?」
 千星がきょとんとした表情で訊く。
「いや、何となくなんだけどさ。端山ってガタイがいいだろ? 安曇さんはすっげー細いし小さいし、外見的にあんまりつり合わなさそうだからかな」
「まぁそれはあるかもな。ホントこいつ細いからさ。もっと食べろって言うんだけどな」
「食べてるでしょー、ほらー」
 少しふくれ気味で、千星は目の前のチョコバナナパフェをぱくりと頬張った。
「そういえばさ……」
 何か思いついたように、和輔の中学時代からの友人、倉垣利樹くらがきとしきが口を開いた。
「河田と安曇さんがつきあってるとかいう噂、一時期なかったか?」
 和輔は烏龍茶が気管に流れ込みそうになり、げほげほと咳き込んだ。
「何だよ河田。さては、実はつきあってたとか?」
「違うって! ただの噂だよっ。なぁ安曇っ?」
 からかい調子に言ってくる孝治の言葉を必死に否定する。実際、つきあってはいなかったのだから。変な誤解はされたくない。千星のためにも。
 千星はにっこり微笑んで言った。
「うん、違うよ。河田くんとはクラスメイトだったけど、つきあってはなかったよね」
「……『つきあってはなかった』って……」
 千星の隣に座る暁が、微妙なニュアンスを聞き咎めて、千星に目を向ける。
 ちらり、と千星の視線が和輔に向けられた。和輔が何か行動する前に、それはするりと外される。
「……あたしは、好きだったの。河田くんのこと」
 ゴホッ。
 咳き込んだのは孝治だった。
「安曇さん……それはかなりの爆弾発言だぜ? ほら、端山も河田も凍りついてる」
 千星は不思議そうな顔つきで、和輔に目を向けた。
「でも、河田くん知ってたでしょ? あたしの気持ち」
「あ、安曇……っ、あのなぁ……っ」
 窒息寸前でテーブルに突っ伏した和輔は、がしがしと頭を掻きながら向かいに座る千星を睨み上げた。
「お前っ、時と場所を考えろ!? しかもだ、言っていいことと悪いことがあるのわかってるか? 確かにオレは知ってたけどもっ、それを今言うことないだろ!? 端山はそんなの知りたくなかったのかもしれないし!」
「だって、本当のことでしょ?」
「本当だけど! あーっ、何で安曇はそうバカ正直なんだよっ」
「あたし、嘘はつかないもん」
「何も嘘をつけとは言わないけど! お前はもう少し人の気持ちを考えてだなっ」
 すらすらどころではなく、どばどばと言葉が溢れてきた。
 こんな掛け合いを、高一の頃はいつもしていた。――懐かしかった。
「……お前らって、仲良かったんだな……」
 ぼそりと飛び出した暁の声に、和輔はハッと言葉を止めた。
「悪い端山、つい昔のノリで……」
「いや、オレ、河田と千星が仲いいなんて知らなかったからさ。びっくりした」
 ちらりと笑みを浮かべた暁だが、それはどこか引きつったようなものに見えた。
「でもね、クラスメイトの時はいっつもこんなんだったよー?」
 無邪気に話しかける千星の頭を、暁はどこか切なそうにやさしく撫でた。



「……河田くん」
 暁が「車回してくる」と言って離れてしばらくして、千星が口を開いた。
 孝治たち三人は少し離れた場所でたむろしている。少し気を遣っているのかもしれない。
「あたし……さっき、すごくうれしかったよ」
「……え?」
 和輔は何がうれしかったのかわからなくて、千星を見た。
 千星は目線を地面に向けている。
「高一の頃……いつも、ホントにいつも、あたし河田くんと一緒にいたよね。それで、あんなふうにしゃべってた。ずっと……それを忘れてたから。思い出して、すごく懐かしくて……うれしかったの」
「安曇……」
 和輔は、心が締めつけられるようだった。
 急速に、思い出していた。あの時――千星と離れることになった瞬間を。



 高一の終業式の日。その放課後、だった。
 和輔が部活を終えて教室に戻ると、そこには千星が一人いた。
「お疲れさま、河田くん」
「安曇……どうしたんだ? こんな遅くまで……」
 剣道部は、熱血な野球部と同じくらい遅くまで練習をする。部員も多く、強い部活だからだ。部室に入りきらないので、一年は教室で着替えをするため和輔は剣道着のままだ。
 窓の外は真っ暗で、グラウンドを照らす野球部のライトの光だけがきらきらと目立っている。
「河田くん」
 千星が椅子から立ち上がる。そして和輔のもとへ歩み寄った。
「あたし……河田くんが好きなの」
 和輔は、思わず目を伏せた。
 千星の気持ちには、薄々気づいていた。そして――自分の気持ちが千星に傾きつつあることも。
 しかし、和輔にはその気持ちに答えられないわけがあった。和輔の親友である前嶋知也まえしまともやが当時、千星が好きだと和輔に打ち明けていたのだ。和輔には、親友を裏切ることはできなかった。
 千星は、黙ったままの和輔の、剣道着の袖をぎゅっと掴んできた。
「何か言ってよぉ……河田くん……っ」
「……安曇……」
 その時千星に目を向けてしまった自分を、和輔は大きく後悔していた。
 見なければよかった。
 瞳を潤ませて――懸命に涙をこらえようとしている千星の表情を。
「お願い……嫌いって言って……! 嫌いって……そう、言ってくれたら……あたし、あきらめられるから……! ねえ、河田くんっ……」
「言えないよっ!」
 和輔は、千星を掻き抱いた。細い身体を、きつく、きつく――抱きしめた。
「言えるわけないだろ! 言えない……安曇……っ」
「河田……くん……?」
 ゆるゆると、腕に込めた力を緩めていく。そして、涙で濡れた千星の頬をそっと拭った。
「ごめん……」
 オレはそのまま、鞄をひっつかんで教室を後にした――。



「あたし……河田くんのこと、大好きだったよ」
 変わらない、やさしい穏やかな微笑みを湛えて、千星は言った。
「だけどね……暁くんのこと、河田くんよりもっと大好きになってるって……最近気づいたの。きっと暁くん、気づいてたと思う……あたしがずっと、忘れられない想いを引きずってたこと……」
 千星はカゴバックについている犬のぬいぐるみを外した。そして、和輔をじっと見据えた。
「あたし、つらくなった時とか、悲しくなった時は、この子に慰められてたの。河田くんへの……昇華しきれなかった想いは、この子が全部食べてくれたから……あたしにはもう、必要ないの。だから……河田くんに返すよ」
 千星が差し出した両手の上に転がっている、犬のぬいぐるみ。あの時、何気ない気持ちであげたあのぬいぐるみが……ずっと千星のそばにいて、慰め役になっていたのだ。
 パパッ。
 クラクションの音が響く。暁の車が孝治たちのそばに停まっている。
 千星は和輔の手にぬいぐるみを持たせた。
「じゃあ、またね」
 そう言って、千星はくるりと踵を返す。
「安曇っ!」
 和輔はとっさに、その細い手首を掴んで引き戻した。
 まんまるになった千星の瞳が、和輔を捕らえている。和輔は小さく笑みをこぼした。
「……オレも、大好きだったよ。安曇」
 ふっと瞳を翳らせた千星は、ぱっと背を向けて走っていき、暁の車に乗り込んだ。――どこか泣き出しそうな微笑みを残して。
 もう一度クラクションを鳴らして、暁の車は発進し、遠ざかってゆく。
 和輔は、手の中のぬいぐるみに視線を落とす。
『あたしにはもう、必要ないの』
 千星はそう言った。今度このぬいぐるみの慰めが必要なのは、きっと和輔なのだろう。
 ふと夜空を仰いで、和輔はつぶやいた。
「……本当に、大好きだったよ……」
モクジ


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