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 わたしが目を覚ました時、彼はぴしりとプレスされたスーツを着て煙草を吸っていた。アイロンをかけておいて良かったと、自分の行動に少し満足した。けれど、ふうーっと息を吐き出し、どこか遠くを見つめている彼の心は、きっともうここにはない。
 わたしは寝転んだまま身じろぎせず、じっと彼を見つめた。
 窓から差し込む朝の光を受けて、黒髪がきらきらと光っている。横を向いているから、睫毛が長いのがよくわかる。鼻も、筋が通っていて綺麗な形だ。薄い唇はあまり健康的な色をしていない。
 短くなった煙草を灰皿に押し付けるために動いた彼は、やっとわたしを視界に入れてくれたようだった。
「……ああ、起きたの?」
「うん」
 やわらかい声音を聞いて、不覚にも涙ぐみそうになってしまった。わたしは誤魔化すように、欠伸に見せかけた仕草をした。
 彼は……わたしの好きな太田一哉おおたかずやという人はいつも、こんな声音でしゃべっていたんだ。過去を少し思い出して、昨夜の、凝縮された時間に閉じ込めたはずの想いが溢れそうになる。
 駄目。一夜限りの関係だと、わたし自身が決めたのだから。
 そう、自分に言い聞かせる。
「朝ごはん……迷惑でなければ作るけど」
 わたしはベッドから起き上がりながら言った。確か食パンの買い置きくらいはあったはず、と考えをめぐらせる。
「いや……いいよ。そろそろ行かないと、仕事に間に合わないから」
 響きはやわらかいのに、彼の声に冷たさを感じてしまうのはきっと、気のせいではないのだろう。それは罪悪感なのか……、それとも、わたしへの拒絶なのか。
「じゃあ、行くな」
 ほんの申し訳ていどにわたしと目を合わせ、すぐに玄関へ向かって歩き出す。わたしは戸惑いながらも後に続いた。けれどすぐ傍で見送るのは何だか気が引けて、少し離れた場所に立つ。
 靴を履き終え鞄を手にした太田くんはドアノブに手をかけたが、もう一度こちらを振り返った。
「アイロン、ありがとな」
 その一言と、困ったような笑顔を残して彼は行ってしまった。ガチャーン、と鉄製のドアが閉まる音がやけに大きく聞こえた。
 わたしと太田くんの関係の終わりを、暗示しているかのように。
 ……これで終わりなのだったら、どうして最後に優しさを見せるの?
 わたしは、貴方のその困ったような笑顔に弱いのに。
 パジャマのままへなへなと床に座り込み、わたしはそっと涙を流した。


 太田一哉。
 高校時代の彼は決して、誰が名前を聞いても顔を思い浮かべられるほど目立っているわけでもなかったし、特別にモテるわけでもなかった。どちらかと言えばおとなしい部類に分けられるが暗いイメージはなく、「黙々」という言葉がしっくりくるような学校生活を送っていた。
 わたしは女友達とわいわい騒ぐのが好きだったから、自然と一番にぎやかで目立った女子グループに所属していた。休み時間は友達の席に集まってファッション雑誌を読み、トイレには連れ立って行き、帰り道ではファーストフードでおしゃべりをする。校則では禁止されている染髪もしたし、化粧もしたし、スカートはどれだけ短く出来るか競争でもあるのかというくらいの丈にしていた。そんなどこにでもいる、流行りの女子高生だった。
 太田くんとしゃべった記憶だって数えるほどしかないし、そのすべてがつまらない小さなことだった。
 だけど、わたしは彼を好きになった。
 あんな表情を、見てしまったから―――。


 それはわたしが高校三年生の時。教室でいつものごとく女友達とおしゃべりに花を咲かせている最中、当時の彼氏と撮ったプリクラをハサミで切っているとその数枚が風に飛ばされて窓の外へ落ちてしまったのである。
 教室は二階。友達に「何やってんのー」と言われながら、わたしは仕方なく拾いに行くことにした。ちょうど窓の下は中庭で、短い芝生しか生えていないので案外すぐに見つけることができた。
 小走りで教室に戻ろうと校舎の角を曲がろうとした時、二つの人影が佇んでいるのに気づいてわたしは慌てて足を止めた。二人の間にある妙な緊張感から、告白シーンに出くわしてしまったことを知る。
「……ありがとう」
 やわらかい、男の子の声。困ったように笑うその顔を見て気づいた。それが、クラスメイトの太田一哉であることを。
「でも、俺は今、彼女をつくる気持ちはないんだ。ごめん」
 女の子の方は、見覚えがないから下級生だろうか。うつむいたまま何度もうなづき、そのまま校舎の中へ駆けて行った。
 太田一哉は、ふぅっと息を吐いた。困ったような笑顔に少し、安堵が差したようだった。そして、何事もなかったかのように校舎の中へ戻っていった。
 わたしはしばらく、その場に立ち尽くしていた。太田一哉のあの笑顔が、頭から離れなかった。
 あんな表情で、告白を断る男の子を初めて見たからだ。
 高校生の男女関係なんて、何となく好きになって何となく告白して、何となくつきあう。そんなのが普通だと思っていた。けれど太田一哉は、その「何となく」の入り込む隙をまったく持ち合わせていないようだった。告白をしてきてくれた女の子に対し、きっぱりと、でも優しく、真心をこめて断りの言葉を言っていたように思えたのだ。
 太田一哉という人に比べて、わたしの彼氏は何て薄っぺらいのだろうと思った。


 そして昨日、わたしは太田一哉と再会した。高校三年生のクラスで開いた同窓会に彼も来ていて、会場入りした順に席に座らされた際、たまたま隣になったのだ。
 彼はスーツ姿だった。仕事帰りなのかもしれない。そういうわたしも、仕事用の落ち着いたスーツのまま来たためにまわりの華やかさとは一線を画していた。
「……太田一哉くん?」
 わたしは堪らず、声をかけてしまっていた。太田くんはわたしを見て、少し意外そうに見つめてくる。
「わたし、佐々木希ささきのぞみ。覚えてる? あんまりしゃべったことないと思うけど」
「ああ……」
 声は戸惑っているようだったが、太田くんはまっすぐにわたしの瞳を見て返事をくれた。それは、わたしという人物が太田くんの脳内にちゃんと残っていたということだ。それだけで、わたしは天国へ迎えられたような気分になった。
 だから、なのか。
 わたしはいつもより上機嫌でアルコールを飲み、久しぶりに顔を合わせた友人たちとしゃべりあった。明日は仕事があるというのに、三次会にまで出席した。仲の良い女友達は二次会までで帰ってしまったけれど、太田くんが他の男の子に混じって残っていたからわたしも残った。そして太田くんに絡んだ。
 そこで聞き出したのは、幼い頃からの夢だった建築関係の仕事に就いていること。社宅で一人暮らしをしていて、そのアパートは意外にわたしの住んでいるアパートと近いところにあること。会社の同期の女の子と二年以上交際を続けていること、結婚も視野に入れているということ。
 彼は照れ隠しに頭を掻きながらも、たいそう幸せな笑顔を浮かべて答えていた。それを見て、たぶんわたしの中の何かが弾けたんだと思う。
 一瞬でも良い。この人のものになりたいと思った。
 その後のことは、自分自身もあんまり覚えていない。けれど、全身全霊をかけて彼を、太田一哉を愛した。これだけは覚えている。心が、そして身体が。


 気だるい気分のまま、わたしはのろのろと出勤する準備をした。食パンが二枚残っているのを見て、また太田くんの微笑みが蘇って胸がツキンと痛んだりはしたけれど。
 いつもより少し早い時間にアパートを出て、最寄りのバス停までの道を歩く。
 空は厚い雲に覆われていて、今日は心持ち涼しい。でも曇りの日の方が紫外線は強いと聞くから、日焼け止めを塗ることはは怠っていない。
 バス停には、まだ誰もいなかった。ため息を吐き、ふと足元を見たわたしは「ひゃっ」と思わず声を挙げて後ずさった
 蝉が、仰向けにコロリと転がって死んでいた。
 昆虫の腹ほど気持ち悪いものはないと思っているわたしは、ゾワリと這いのぼる悪寒が誘うままに視線を反らした。
 けれど、心のざわつきは収まることなく、勢いを増すばかりだった。
 あの蝉は、わたしだ。
 短い夏の日、一夜限りの恋に燃え尽きたわたしだ。
 明日になればまた、じりじりと残暑の太陽が照りつけて死骸の水分を奪い、干からびさせるだろう。そして車のタイヤか何かに踏まれて、カシャリとあっけなく崩れるだろう。もしかするとその破片は、蟻の餌にでもなるかもしれない。

 それでもいい。

 わたしは、わたしの全てをかけて彼を愛し尽くしたのだから。
 短い命を夏に凝縮して死んでゆく、蝉のように。
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