スノウ・シンデレラ

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番外編、それが運命ならば

 さようなら。
 どうかこのまま、浮かび上がることなく沈んでほしい。
 あの人が――大切だから。
 さようなら。さようなら。
 もう機能することのない小さな塊は、静かにその姿を暗い底へと隠していった。


                       *


 帰宅ラッシュを過ぎた電車の中で、理加は窓枠に頬杖をついて流れる景色を見るともなしに眺めている。
 電車のスピードがゆっくりと下がってゆき、停車駅に止まる。
 開いたドアから、乗客は降りるばかりで新たに乗ってくる人はない。階段から離れているホームの外れはがらんとしている。自動販売機の横にある二つの三人がけベンチも空っぽだ。
(ああ……)
 一年前、理加はここで一つの恋に別れを告げた。
 頬杖をはずして、視線を前に戻す。あの場所は、長く見てはいたくない。決して良い思い出ではないから――。
(未だに、はっきりと思い出せる。あのベンチに季世子さんと志渡さんが座っていて、わたしはその横に立っていた)


                       *


 先程まで泣きじゃくっていた季世子さんは、泣きやんではいるようだったがずっと俯いたままだった。隣に座る志渡さんは、そんな季世子さんを気遣わしげな瞳で見つめている。彼の手は手すりの上にあるけれど、その腕は微かに震えているようだった。
 わたしは、二人の関係を掴み損ねていた。
 自分の直感は、この二人は深い関係であると言う。けれども志渡さんは、一方的な想いなのだと言う。
 季世子さんの憔悴ぶりはどちらとも取れる。もし季世子さんが志渡さんを恋愛対象として見ていなかったのならば、長い付き合いの恋人がいるのだから断るのは当たり前だ。季世子さんは優しいから、志渡さんをふらなければならないのが心苦しくて涙が流れたのかもしれない。――でもそれは、秘めるべき恋が露見してしまった咎から流れたものかもしれない。
「志渡くん……」
 かすれた、今にも消えてしまいそうにか細い季世子さんの声。
「どうした?」
「理加と……二人で話したいんやけど……」
 泣き腫らして真っ赤な、けれども残酷に美しい瞳がわたしを真っ直ぐに見つめる。
「……忍さん」
「このまま、わたしたちがこじれてしまったら……一番悲しいことやと思うから……」
 志渡さんは躊躇したようだったが、結局は立ち上がった。ジーンズのポケットに入っている煙草の箱を探りながら離れてゆく。
 ふっと安堵したように季世子さんは肩を落とす。自分だけが立っているのも居心地が悪かったので、わたしは先程まで志渡さんが座っていた席に腰を下ろした。
 こつ、と硬い、四角いものが太腿あたりに触れた。何だろうと手で探ってみてハッとする。――携帯電話だ。見覚えのある形とシンプルなストラップから、志渡さんのものだと知れた。いつもズボンの後ろポケットに入れているのを知っているので、そこから落ちたのだろうと推測できた。わたしはそれを、季世子さんの目に入らぬよう後ろ手に隠した。
「理加、ごめん……。ぐちゃぐちゃにしてしまって……わたしのせいで……」
 季世子さんを問いつめたい気持ちはあった。けれど、凶暴な感情がなりを潜めた今は、不必要な波風を立てたくないと思った。
 ――戻りたい。変化を来してしまった三人の想いはどうにもできなくとも、せめて表向きだけは、気の置けない関係であった頃と同じように。
「季世子さんのせいだけじゃないです。わたしたちがこうなってしまったのは、きっと……しょうがなかったんやと思います」
 わたしと付き合ってくれたけれど季世子さんを忘れられなかった志渡さん。
 れっきとした恋人を持ちながら、優しさ故に揺れてしまう季世子さん。
 そして、その二人に据えかねる想いがあっても憎みきれないわたし。
 それらが複雑に絡みあってしまったからこそ、今の状況があるのだろう。誰にもどうにもできなかった。こうなるしかなかった。
 せっかく乾いた季世子さんの瞳にまた涙が盛り上がって、頬を伝う。
「理加、ごめん……ごめんなぁ……」
 わたしの腕に縋って泣く季世子さんの身体を抱えながら、彼女はこんなに涙もろかっただろうかと思う。女らしく優しい性格だけれどしっかり者で、頼りになった。集団の中にいても、何処か一歩引いて静かに佇んでいるような人だ。だから、人前で感情を乱すことなどほとんどなかったと記憶している。そんな季世子さんが、ここまで泣き崩れてしまうとは――。
 やはり、志渡さんと季世子さんは深い関係になっていたとしか思えない。季世子さんは罪悪感に泣いているのだ。曲がったことのできない人だったから。
 ほぼそう確信したのだが、その事実はわたしの心の奥にしまっておく。志渡さんのことは今でも好きだと思えるけれど、季世子さんを見ていたら適わないと思った。軽い気持ちで『浮気』という背徳の立場に立てるような人ではないから、何もかもを捨てるような覚悟で彼の許へ飛び込んだのだろう。だからこそ、志渡さんとのことにはこんなにも感情的になるのだ。簡単に自分と比較はできないけれど、それでも太刀打ちできるものではないと感じる。だから――。
 ゆっくりとした足音が近づいてくる。志渡さんが戻ってくる前に、わたしは握った左手をコートのポケットにつっこんだ。
「話、終わったか?」
 その問いかけはわたしに向けられているのだけれど、そこはかと季世子さんを気遣う空気が取り巻いていて、彼にとっても季世子さんはかけがえのない存在なのだと痛感した。
 季世子さんを窺うと、目元をこすってこくりと頷いた。
「わたし、季世子さんを送っていきます。次の電車で帰ろうと思うんですけど」
 志渡さんはハッと自分の腕時計を見た。十時十五分。季世子さんはいつも、十一時までに帰宅できるように気をつけている。次の電車に乗ってぎりぎり間に合うくらいだ。
「ごめん――随分遅くなっちゃったよな。俺も送って行こうか」
「大丈夫ですよ。……季世子さん、混乱してるので志渡さんがいない方がいいと思います」
 不安そうな志渡さんの言葉を、わたしはきっぱりと一蹴した。彼は驚いたように目を瞬かせた。
「ああ……そう、だよな」
 電車の到着を告げるアナウンスが始まる。わたしが差し出した手を握って、季世子さんは立ち上がった。伏せていた瞳を上げて、志渡さんを映す。
 引き裂くように鳴り響く警告音。
「志渡くん……いろいろ、ごめんな。……ありがとう」
 彼は、微笑を湛えて軽く首を横に振る。季世子さんはすぐに俯いてしまった。わたしは彼に会釈をしてから、季世子さんと一緒に電車に乗り込んだ。
 ドアが閉まり、電車が動き出す。立ち尽くした志渡さんの瞳は、その姿が見えなくなるまでこちらを見つめていた。


                       *


 自宅の最寄り駅に着くと、理加は足早に閑散とした構内を抜けて外へ出る。
 びゅうと唸る風が吹きつけてくる。今日は一日中風がきつかった。春一番というものだろうか。顔を上げていると髪が覆い被さって邪魔なので、俯き加減に歩く。
(あのときは二人の関係を疑ったけど……今となってはわからへんなあ……)
 季世子はチェーン展開をしている喫茶店で社員として働いており、理加はしばしばその店へ寄ることもあるし、季世子とメールのやりとりをしたりもしている。その限りでは、徹史の影は微塵も見当たらない。一年前別れてそれっきりであるようだった。けれどあの後、程なくして季世子は長く付き合っていた恋人と別れているので、理加の考えは間違っていないような気もしている。
(あれっきりで別れてしまうんやったら、それまでの運命なんやろうし)
 それは一年間、理加が自身に言い聞かせてきた言葉。
 駅前から細い路地を抜ける途中、溝川に架かる短い橋を渡る。理加はそこで立ち止まり、濁った水面に目を落とした。――一年前と同じように。
 そして、この汚水の底に横たわっているだろう小さな塊を思う。
 あの日――ここで立ち止まった理加のコートの左ポケットには、携帯電話が入っていた。駅のベンチで拾った、徹史のものだ。理加はそれを、この溝川に沈めた。
(携帯電話を無くしてしまえば、志渡さんと季世子さんの繋がりは切れる。志渡さんはもうすぐ関東に帰ってしまうから。……もし本当に二人が惹かれ合う運命なんやったら、こんな些細な復讐、何でもないはず……)
 関係を問いつめなかった代わりの復讐だと、自分に言い聞かせて。
 ――一年前の自分はずいぶんと夢見がちなことを考えていたと思う。でも、そんなくだらない理由をつけてしまいたいくらいには、真剣に徹史が好きだったのだ。
 けれども季世子も、理加にとっては憧れであり大切な人だった。どちらも悪者にできなかったから――理加は想いを押し込めて逃げるしかなかった。
 今はまだ消えきらぬ想いは疼くけれど、もし何年か後、二人が運命とやらに導かれて再び出逢ったのならば、そのときは心から祝福したいと思う。
(それまではここで沈んでいて……)
 祈るように数秒瞳を閉じたあと、理加は溝川に背を向けて歩き出した。
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