甘い幻想

「おいで、ティアナ」
 差し伸べられた手を取るべきなのか。
 ティアナは不安に揺れた瞳でその手の持ち主を見上げた。
 彼はふわりふわりと微かに身体を上下させながら、宙に浮かんでいる。
「ティアナ。私を信じてほしい」
 その言葉に嘘はないと、わかっている。けれど……。
 ティアナを躊躇わせているもの。それは――“魔術師”という彼の身分。
 “魔術師”とは、より高度な魔法を行使できる者として認定されている魔法使いを指す。その数は世界に二十もいないという。各国はこぞって、どんなに高給を支払ってでもこの“魔術師”を雇い入れようとする。それは、勢力争いに有利になるからに他ならない。“魔術師”の数や能力で国力がわかる、と言っても過言ではないかもしれない。
 よって、ほとんどの“魔術師”は何処かの国に属している。しかし、束縛を嫌い独立している“魔術師”も在った。能力の高い“魔術師”ほど、人間とは相容れない為にその傾向が顕著である。
 北のノエリーン。
 南のサメド。
 東のカーレル。
 出没する地域の方位を冠するこの三人が、特に“三大魔術師”として名を轟かせている。
 今、ティアナの前にいるのはそのうちの一人。東のカーレルと呼ばれる魔術師その人なのである。
「そんな……こと。わたしは、貴方が偉大な“魔術師”だとはいざ知らず……、大変な失礼を……」
「どうしてそんなことを言う、ティアナ。カジミールと名を変えてはいたが、何も変わらない。私は私だ。“魔術師”の肩書きなど、関係ない。私はただ、君を愛している」
 微風にたなびく白銀の髪。真っ直ぐに見据える紅の瞳。
 ティアナの知っている、ティアナの愛したカジミールは、栗色の髪に緑の瞳だった。それはこの、“魔術師”カーレルの仮初めの姿。
 けれど、色が変わろうともその湛える優しさは変わらなかった。
「……カーレル、様」
「これまでどおり、カジミールと呼んでくれていいんだよ、ティアナ。私はカーレルであり、カジミールであるのだから」
 だんだんと、ティアナの中でカジミールとカーレルが一致してゆく。
 名前や姿形は違っても、本質は変わっていない。その事が確信に変じてゆく。
「カジミール……」
「そうだよ、ティアナ」
 カーレルの声は、ティアナのすべてを包みこむように広かった。
 だから、ティアナもそれに応えなければいけないと感じた。
「……カーレル。わたし、貴方と共に行きます。わたしは……貴方の傍にいたい……!」
 もう一度差し出された手に、今度はしっかりと手を伸ばす。手と手が重なると、ぐっと身体が引き上げられた。
 抱きしめられたぬくもりに、涙がこぼれそうになった。
「私の愛しいティアナ」
 鮮烈な印象を与える紅の瞳が、満足げに細められる。慈愛の色に満ちて。
「愛しているよ」
 はじめは軽く、唇が触れ合う。
 その微かな熱では足りないと言いたげに、カーレルは何度も何度も接吻を繰り返す。
 そのうち、ティアナは気づく。カーレルの……いや、二人のまわりに、色とりどりのシャボンが湧いては弾け、湧いては弾けしていることを。
「カーレル? これは……?」
 接吻の合間を縫って声を出すと、カーレルはふっと笑みを浮かべた。
「“魔術師”が恋をするとね、無意識のうちに幻想イリュージョンが生まれてくるそうだ。……話に聞いてはいたけれど、初めて見たな」
 カーレルは、そっとティアナの火照った頬を撫でた。
「君に似つかわしい、可愛い幻想イリュージョンだ」
 くすくすと嬉しそうに笑うと、カーレルは先程よりきつくティアナを抱きしめる。
「さあ、行くよ。君を、私の本当の住処に案内しよう。きっと気に入ると思うよ」
「はい」
 静かに一度降下して、そのまま地面を軽く蹴る。すると、程良い勢いで二人の身体は空に舞い上がり、そのまま小さくなっていった。
 あとに、七色シャボンの幻想イリュージョンを残して。
Copyright (c) 2007 Aoi Tsukishiro All rights reserved.