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  蝶の誘い  


 ひらり、俺と美朝子みさこの前を黒い揚羽蝶が横切って上昇した。
「美朝子……」
 俺は呼びかけようとして、はっと言葉を切った。


 美朝子には、もう見えないんだ――。


「どうしたの、はるか?」
 美朝子は綺麗な瞳を細めて笑い、俺に問いかける。
 その視線は、俺の瞳を素通りしてどこか知らない処を見つめている。けれど美朝子はそこに、俺の瞳を見ているはずなのだ。
 俺は、繋いだ手をいっそう強く握り締めた。
 この小さなてのひらは永遠に、俺だけに差し出されるものだから。
「何でもない。……行こう、美朝子……」




 美朝子は蝶が好きで、だから春が好きだと言っていた。
 紋白蝶、蜆蝶、揚羽蝶……見つけるたびに追いかけて行って、蝶が花に止まれば傍に座り込み、幸せそうに微笑みながらずっと見つめているのだった。
 美朝子は、一言で言えば何を考えているのかよくわからない女の子だった。
 大学の学部で何となくグループができたとき、たまたま俺と美朝子が同じグループにいた。それだけだった。けれどあれから二年が過ぎ、俺たちはもう三回生だ。
 けれど俺はまだ、美朝子が何を考えているのか、わからないままだった。
「おまえ、よく美朝子につきあってられるなあ」
 そう言ったのは、俺の高校時代からの友人であるりょうだったか。亮は二回生のときに美朝子とつきあったが、三ヶ月保たずに別れて、それからは普通の友だち関係に戻っている。
「一歩引いた友だちとしてなら問題ないけどさ、あいつ、何考えてんのか全然わかんなくて困ったよ。いつも聖母様みたいに笑っててさ。ほんと、わかんねえ。玄が、何だかんだ言ってたぶん、美朝子の一番近くにいると思うけど……しんどくないか?」
 俺は、美朝子のことがわからないからではなく、美朝子のことをわかることができないからもどかしいのだった。少しでも、同じ視点に立ってものを見てみたい。そう思っていた。
 たぶん、友だちと呼べる関係のなかでは俺が一番美朝子の近くにいる。それには自信があった。だからこそ、もっと美朝子を知りたかった。


 日曜日、俺はバイトを空けて美朝子を遊びに誘った。
 何処へ行きたいか訊くと、美朝子は少し首を傾げてから、「蝶々が見たいの」と言った。
「蝶々がいっぱいいる処に行こうよ、玄」
「美朝子は本当に蝶が好きだなあ」
 俺が笑うと、美朝子もにっこり笑った。
 俺たちはローカル電車に乗って、俺が小学校の頃遠足で行ったハイキングコースを目指した。おぼろな記憶だが、そこには蝶がたくさん舞っていたような気がする。
 たたん、たたん、と規則正しく揺れる二両編成の列車は、心地良い眠りを誘う。窓からちょうど良いあたたかさの日光が射し、身体をあたためてくれる。
 こくん、と美朝子の首が前に倒れた。
「……美朝子? もう少しかかるから、寝とくか? 肩貸すけど……」
「ん……」
 美朝子の頭が、俺の二の腕にもたれかかった。反射して金茶色に光る髪を、発作的に撫でる。てのひらにまとわりつく柔らかな感触が堪らなくて、少し胸が軋んだ。俺は下車駅に着くまでずっと、美朝子の髪を撫で続けていた。

「ちょっと歩くぞ?」
「うん。だいじょうぶ」
 木の板を模した看板に書かれた『ハイキングコース』の文字を辿って、俺たちは歩きはじめた。しばらくは二車線道路の歩道が続いていたが、次第に道幅が細くなってゆき、やがて車道と分かれて、小高い山へ続く小道が現れた。看板の矢印はそちらを『ハイキングコース』に定めている。
「蝶々、いそうかも!」
 小道の脇には野花がたくさん咲いており、いかにも蝶などの虫がいそうな雰囲気を醸し出していた。
 嬉しそうに足取りの軽くなった美朝子を微笑ましく思いながら、俺もそのあとに続く。
 木陰に入ると、ざああと涼しい風が吹き抜ける。見上げると、緑の葉が陽光に透けてセロファンのようにてらてらと光っていた。
「玄ー? ねえ、もっと先に行ってもいいー?」
 はしゃいだ美朝子の声は、いつもより幾分高い。
「一緒に行くから、ちょっと待ってろよ!」
 俺は湾曲した林道の先にいるだろう美朝子に追いつくため、少し小走りした。そのカーブを曲がったところには、しゃがみこんで何かに見入っている美朝子の姿があった。
「蝶、いたのか?」
「うん、さなぎ……」
 美朝子の指差した、てのひら半分くらいの大きさの葉の裏に、薄茶色の物体が引っ付いていた。
「まだ羽化してないのかなー?」
 美朝子はちょんちょん、とひとさし指で軽く蛹を突付いている。女の子は幼虫の類が苦手、という方程式が当たり前だと思っていた俺としては、驚きの事実だった。
「でも、もう五月入ったしなあ……。羽化してるやつもいるだろ。もう少し歩いてみるか?」
「うん」
 美朝子は、きょろきょろとあたりを忙しなく見渡しながら俺の先を歩いてゆく。少し上を見て歩いているので、たまに石に躓きかけたり、妙に片側に寄って歩いたりしている。見ている側としては非常に危なっかしかった。
「美朝子、危ないから……」
「あ!!」
 俺が後ろから美朝子の腕を掴もうとした瞬間、美朝子はするっとすり抜けて駆け出してしまった。数メートルも離れていない場所で立ち止まり、空を仰ぐ。
「揚羽蝶……」
 俺もその方向を見やると、大きな黒い揚羽蝶が、優雅に風に舞っていた。蛍光色のような青い斑点の黒とのコントラストが妖しげな蝶だった。
 無言でただ、その揚羽蝶を目で追う美朝子。
 俺はなんとも形容しがたい、熱いことだけはわかる感情が腹の底から湧き上がってくるように感じて、空を切った腕を引き寄せ、拳をきつく握り締めた。その感情が何かはわからない。ただ美朝子に向けたれたものであることは直感的にわかっていた。
 俺もただ、前にいる美朝子を見つめる。心の声に耳を澄ます。


 俺ノモノニ。


 傍ニイテホシイ。


 ズット。ズット。――――永遠ニ。


 ひらり、揚羽蝶は俺の頭上を舞い、もと来た道へ誘いだす。
「あ……!」
 とっさに追いかける美朝子。――それは何かに憑かれたように。
 ふっ、と不意に美朝子の姿が視界から消えた。
 数秒間立ち尽くした俺は、理解した。そして慌てて、湾曲した林道から下を覗き込む。
「美朝子っ!!」


 ちょっとした高さをした崖の下に、美朝子が倒れていた。




 美朝子は失明していた。
 崖から転落したのにもかかわらず骨折はなく、擦り傷程度で済んでいた。それなのに、その瞳だけが光を伝えなかった。
 おそらく頭を打ち、その打ち所が悪かったのだろうと医者は言った。はっきりした原因はわからなかった。
 失明を知った美朝子は、長い沈黙のあと、一言こう言った。


「玄が、これからずっと、一緒にいてくれるんだよね?」


 俺の醜い願いは叶ったのだ。
 美朝子は永遠に、俺の手の届くところにいるのだから。
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