水色ホーム
こつん、とガラスの水槽を指ではじくと、ゆらゆらと水中を漂っていた二匹の金魚はパッと身を翻した。
赤と白の、ぷくぷくとまるっこい金魚。「ピンポンパール」という名前なのだと、英生から聞いた。本当にピンポン玉のようにまるい。からだ全体を揺らして一生懸命泳いでいる姿が愛らしい。
一生懸命な生き物は好きだ。じっと眺めていると、心がかるくなってゆくように感じる。だからわたしは、英生が愛しいのだ。何にでも全力でぶつかってゆく英生が。
英生は、五つ年下の弟だ。つい先月に誕生日を迎え、二十歳になった。
とはいえ、わたしからしてみればまだまだ子どもという感じが抜けない。図体だけは無駄に大きくなったけれど、心にはまだ幼さを残している。
小学校時代はやんちゃで名を馳せた英生だけれど、昔から心根の優しい子だった。生き物、特に金魚が好きで、高校生になってはじめて得たアルバイト代で赤一色の金魚二匹と金魚鉢を買ってきた。すいすいと気持ち良さそうに泳ぐ金魚を、英生は誇らしげに見せてくれた。
「姉ちゃん、ほら、綺麗だろ」
ガラスの金魚鉢は太陽の光を受けて目映く、そのなかをきらっきらっと泳ぐ赤い金魚は宝石のように見えた。
「うん、綺麗。ずっと観ていたい……」
「そうだろ?」
まるで出来の良い子どもを褒める父親のようだ。急に大人びた表情を見せる英生に、わたしは置いていかれたような気持ちになる。けれどそれは何だか悔しくて、動じていないふりをした。
「こいつら、俺の部屋にいるからさ。姉ちゃん、いつでも観てて良いよ」
英生がそう言ってくれたから、わたしはたびたび英生の部屋に行き、金魚を観賞した。時には並んで畳の床に寝転がり、飽くことなく金魚のダンスを眺め続けた。
鮮やかな赤は、わたしたちに共鳴してちかちか瞬く。それが心強かった。
「姉ちゃん、帰ってたんだ」
引き戸が開き、英生が姿を見せた。わたしは「うん」と生返事を返す。瞳は水槽に向けたままだ。
英生は黙ってわたしの隣に腰を下ろす。静寂の中、コポコポというフィルターの音だけが響いている。
水の音は心地よい。人間とて、もとを辿れば水から生まれ出でたもの。何か感覚的に感じるものがあるのかもしれない。
「ねぇ、英生」
わたしは金魚を見つめたまま口を開いた。
「金魚のどんなところが好き?」
「……一生懸命なところ」
間髪入れずに返事が返ってきた。
わたしと英生の感覚はよく似ているが、こんなところでも同じですこし笑えた。
「姉ちゃん」
短く発音される英生の声は平常より低く聞こえ、赤の他人ではないかと感じさせる。ちくりと胸が痛くなる。
「俺は、姉ちゃんの一生懸命なところが好きだよ。でも……何でも一人で抱えるなよ。俺がいるし、父さんと母さんがいる。姉ちゃんは独りじゃない」
幼さゆえの真っ直ぐな感情がわたしを揺さぶる。
耳鳴りが聞こえる。
気味の悪い囁き声がねっとりと絡みつく。
「また沢生さんですか。どうしようもないわね」
「そうよお母さん。ホント目障りなの、あの人。追い出してよ」
「しっ、聞こえるぞ」
「聞こえたっていいじゃありませんか」
「そうよお父さん。お父さんだって邪魔でしょうあの人」
「アイツも浮気する甲斐性あるならさっさと離婚しろってんだ」
「あははー言えてる!」
独りだった、あの時は。あの家にいた時は。
誰も助けてなどくれなかった。耳を塞ぐしか術はなく。けれど指の隙間を縫ってまで、声はわたしを侵食する。
だからわたしは逃げたんだ。
「姉さん!」
「英生っ……」
口にしてはいけないと固く誓ったはずの台詞が、ぽろりと零れそうになる。それを堪える代わりに涙が出た。そんなわたしの肩を、英生がしっかりと掴む。
「言いたいこと、言えよ。何でも聞くから。俺たち家族だろ。姉ちゃんは、何も心配することないから」
家族。
そう、家族。
英生が、そして父さんと母さんが、わたしの家族。
――じゃあ、あの人たちは? あの場所は、わたしの家と言えた?
否。
わたしの居場所は、あの家には無かった。
よそよそしい舅と姑。疎ましげな瞳を向ける義兄と嫂。わたしと家族の確執など眼中に無い夫。
家族のあたたかさなど、欠片も無かった。
わたしは愛されたかった。
夫の家族になりたかった。
「帰りたいよ……英生……」
ずっと流せなかった涙は、きっとわたしの中で凍えていた。
本当の家族のあたたかさにふれて、溶け出し流れ出す。
「わたし……、ここに帰りたい――!」
一ヵ月後、わたしは市役所を訪れた。夫から送り返されてきた、署名入りの離婚届を持って。
押火沢生は、水原沢生に還った。
本当の家族のもとへ。
「おかえり、姉ちゃん」
市役所から戻ると、英生がやけに改まった様子で出迎えてくれてすこし照れた。有給を取ってくれた父さんは平日の夕方にも関わらず家にいて、母さんは腕によりをかけてご馳走をつくってくれていた。
「……こうして四人で食卓を囲むのは、いつぶりかな」
「父さん……」
きっちりとなでつけた髪に白髪がのぞいている。わたしはつんと痺れた鼻の奥をやり過ごし、笑顔を向ける。
「母さん! 何か手伝うことある?」
「そうねえ。じゃあ、お茶碗とお箸を並べて。あ、箸置きはその引き出しの中だからね」
「はーい」
わたしが仕事をこなしていると、英生がなにやら抱えて階段を下りてきた。
「これ、俺から姉ちゃんへのプレゼント」
テーブルの上に置かれたのは、あの日の金魚鉢だった。わずかな砂利が敷かれ、一房の水草が植わったシンプルな配置。その水草の陰に、寄り添う赤い金魚が四匹。
「四人の家族が揃ったお祝い」
「英生……ありがとう」
わたしは膝を曲げ、じっと真正面から金魚たちを見つめた。
なめらかに揺らめく透きとおったひれ。四匹で固まっていれば怖いものはないという様子で、そろってぱくぱくと口を開け閉めしている。
わたしたち家族も同じ。強い絆で結ばれていると知っているから、前を見据えて歩いてゆける。
いつかまた、この鉢から出て行かなければならないことは知っているけれど。
取り戻した幸せを、今だけでもいいから鉢に満たそう。
今度はこの幸せいっぱいの金魚鉢を抱きしめて、ここを出てゆけるように。
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