はっきりと月に憧憬を抱きはじめたのは、
小学校高学年の頃だった。
きっかけは、『かぐや姫』に関する先生の小さな
蘊蓄。
「かぐや姫は、月では罪人だったんだぞ」
それは衝撃的だった。
お姫様と言えばきらきらしいイメージしか持ち合わせていなかったわたしにとって、
“罪人”という響きは何とも恐ろしいものだった。
「かぐや姫は罪を犯した罰として、地上に下ろされたんだな。罪が消えるまで地上で暮ら
したから、お迎えが来て帰っていったんだ」
そうすると、今この地上の何処かに、かぐや姫と同じように月で罪を犯した人が暮らし
ているのかもしれないのか。
当時のわたしはそう思った。
だから、わた しは一つの愚かな夢を見た。
※
放課後の
藤堂寧恵の居場所は、人気のない
図書室の貸し出しカウンターの中だ。
ストーブが一台あるとは言え、冬の図書室
はよく冷える。寧恵はときどき血の気の失せた冷たい手をこすりあわせながら、本を読んでいる。
そもそもこの中学校では、図書委員会がほとんど機能していない。子供の読書離れが叫ばれて久しい昨今、学校の図書室はあの手この手で読書を勧めようとして明るく開放的な場所になりつつあるのに、此処の図書室の陰気さと言ったらない。教室棟の端に申し訳程
度にあるから規模も小さく、全体的に蔵書が
古い。新刊なんて、三ヶ月に一度あれば良い
方だ。故に、図書委員会とは名ばかりで、一
応貸し出し当番表なるものはあるのだけれど
一度として守られたことはなく、教師からの
お咎めもないのだ。三年前、中学校の隣に新
しい町立図書館が出来たので、だいたいの生
徒はそちらを利用するのである。
では何故寧恵はカウンターにいるのかと言
うと、彼女が名ばかりとは言え図書委員長で
あるから、そして彼女自身此処が気に入って
いるからだ。
寧恵は、曲がりなりにも委員長を任される
くらいなので教師からの信用は厚い生徒だ。
大人しく、教師に従順で口答えもしないし成
績も良い。
けれど、同年代の女子生徒の中からは少々
浮いていた。それは、彼女が女子生徒特有の
グループ意識に欠けていて、群れないからだ。
仲間外れと言う程のものでもないが、近寄り
がたい人として認識されているだろうことは
彼女も自覚している。むしろ、寧恵としては
そちらの方が都合が良いので何の問題もない。
どうせ、あと二カ月もすれば卒業なのだ。
高校受験を控えた大多数の生徒は追い込み
時期だが、寧恵は自らのレベルより少し落と
した私立女子高の専願志望なので、合格した
も同然なのだ。だからこうして放課後に無為
の時間をゆったりと過ごせている。それも、
彼女と他の生徒との線引きを一層濃くした一
因かもしれない。
寧恵は独りの時間が好きだった。全ての騒
音を締め出して自らの世界に浸るのだ。読書
は、寧恵の脳内に手っ取り早く想像世界を映
し出してくれる。あとは其処で自由に遊べば
良い。
――ふと気付くと、半端にカーテンを引い
た窓から見える空は既に群青色に染まってい
た。背後の時計を見上げると、既に下校時刻
を五分過ぎている。下校時刻の五分前くらい
には放送とチャイムが鳴ったはずだが、聞こ
えなかった。世界に入り込んでしまうとよく
あることだ。
カウンターの下に置いておいた通学鞄とコ
ートを出して、寧恵はさっさと帰り支度をし
た。ストーブを切り、窓の施錠を見て回って
から図書室を出て鍵を閉めた。そのまま、コ
ートのポケットに鍵を滑り込ませる。委員会
顧問の教師もほとんど寄りつかないので、鍵
は寧恵に預けっぱなしなのだ。
鞄から取り出した白いマフラーを首に巻き
つけながら靴を履き替えて、外に出た。途端
に吐息が白くなる。
校門を出て舗装された道を歩くうちは街灯
がたくさんあるけれど、横断歩道を渡って在
所に入れば、其処はもう別世界だ。申し訳程
度にぽつり、ぽつりと街灯は立っているが、
空に在る月の光の方が力を持つ。
今宵は、半月より少し膨らんだ大きさの上
弦の月。それでも、辺りに散らばる星の瞬き
を相殺してしまう程の光度は有る。
月は自ら光を発しているのではなく、太陽
の光を反射している。そのように理科の授業
で習った時は不思議な気がした。しかし今は
納得している。月が恒星ならば、天人は棲め
ないのだ。
住宅が点在する小径を抜けると、こんもり
とした小さな森が姿を現す。石造りの鳥居が
在って、小さな社も見える。狐の石像がある
から恐らく稲荷神社なのだろう。幼い頃は格
好の遊び場だった。今は――。
神社を囲う低い石の柵に腰掛けた、一つの
影が見えた。
「遅くまでお疲れさん」
ダウンコートを着て、ジャージのズボンの
ポケットに手を突っ込んだ
井出脩がいた。寧
恵の幼馴染だ。
寧恵は脩のすぐ傍まで寄って立ち止まる。そうすると背丈の差が歴然だ。脩は同学年の中でも特に長身だが、ひょろりとしているので実際よりも小さく思われがちだと言う。寧恵は女子の平均身長くらいだけれど、ほぼ頭一つ分違いが在る。
「あなたは勉強さぼってばかりね」
上目遣いに目を覗き込みながら言う。寧恵とは違い、彼はれっきとした受験生だ。
「息抜きだよ、息抜き」
脩はそう言うけれど、彼は毎晩この時間、
この場所にいる。説得力も何もない。
「見張っているんだよ。寧恵が、俺の知らな
い間に月へ還ってしまわないように」
脩は知っている。寧恵が思い描いた幼い夢
を。
寧恵はくすりと笑みを零す。
「あなたに黙っては還らないわ。そう約束し
たじゃない」
そうだったな、と脩はへらりと笑うけれど、
明日も明後日も明明後日も、彼は変わらず此
処にいるのだ、間違いなく。
「まあ、俺は君が“罪人”だって言うのは 未だに戴けないと思っているがな」
果たして、彼の理解する“罪人”の姿はど
んななのだろう。
初めてその言葉を聞いた時はただ訳もわか
らず、恐ろしいと感じた。けれど今は違う。
寧恵は成長した。かぐや姫の犯した“罪”が
何だったのか、思い至れるまでに。
脩は気付いているのだろうか。
「あなたはいつだって、根拠もなく言うのね、
脩」
咎めているのではなくて、むしろ好ましいのだ。たとえ天地がひっくり返ろうとも、彼はきっと寧恵の傍にいて一番に優先してくれる。寧恵の全てを信じてくれる。そう知っているから、寧恵は此処に留まることができるのだ。
脩が寧恵を繋ぎとめているのに、きっと彼はその理由を知らない。寧恵自身は痛い程にわかっているのだけれど。
「根拠は……ないかもしれないな。でも、わかるんだ。知っているんだよ」
何を知っていると言うのだろう。かぐや姫の“罪”? それとも――。
「寧恵が“罪”など、犯すべくもないじゃな
いか。君はずっと、此処から離れずにいるのだから」
寧恵は孤高の世界を創る。けれども何処かへ離れてゆくのではないのだ。ただ、周りを寄せつけないだけだ。
だから、寧恵は還らない。
月の都からの迎えは来ない。
脩は確信していた。それが寧恵を引き留めんがための思い込みだったとしても良かった。そう信じていれば、寧恵は還らないで済むかもしれないからだ。
「……そうかしら」
小首を傾げた寧恵の微笑は、十五年間で一番色づいて見えた。
※
俺がそれを見つけたのは、勉強中に辞書を
引いたときだった。
あくが・る【憧る】
(1) 本来いるべき所を離れて浮れ出る。
(2) 魂が肉体から離れる。
(3) 物事に心を奪われて落ち着かない。
彼女が月に対して異常な憧れを抱いている
ことは知っていた。他でもない、彼女自身が
話してくれたからだ。
それを初めて聞いたとき、俺は恐ろしいと
思った。彼女は本当にいつか月に還ってしま
うのかもしれない、と思ったからだ。現実的
でないのに、思わずそう感じてしまう浮世離
れした雰囲気を彼女は持っていたのだ。
けれど、俺ははっきりと知ったのだ。
彼女は確かに、月に心を奪われていた。そ
れでも、魂を奪われてはいないのだというこ
とを。
だから俺は、一つの可能性を見出した。
「月夜」短編部門 参加作品