わたしは
唄を失くしてしまった――――
もう無理だろ……と、
遼は吐き捨てるように言った。
わたしはそんな遼にうすうす気づいていた。
うたいながら。
遼のギターの音に浸りながら。
それが重々しくなり、死んでゆくのを感じていた。
「それが……お前の答えなんだな」
いつも練習をしているスタジオの喫茶室で。ドラムの
豊は、静かな声で言った。きっと豊も気づいていた。この中で誰よりも大人だから。
遼が項垂れるように頷くのを見て、ベースの
真也はぼそぼそと付け足すように口を開いた。「俺も、そろそろ頃合いじゃないかって思ってた……」とか何とか。いつも調子が良いくせに、ちょっと意気地がない。でも、そんな真也のことも好きだった。
わたしたちは、音楽で生きてゆくという夢を抱いて、一緒に活動をしていた。ライブハウスで歌い、そこそこの人気を勝ち得ていた。けれど、何度オーディションを受けても、合格することはできなかった。
わたしは、遼が……わたしたちのバンド
Fishersが、死んでゆくのに気づいていて、何もしなかった。
わたしは、うたい続けたかったから。ただ、この場所で。
壊れゆく運命なのだとしても。わたしのうたう場所は此処だったから。
わたしはすっと手を伸ばした。
テーブルの上に置いてあったチラシを手に取る。「人気絶頂! Fishers!」という飾り文字が躍る、本番を明後日に控えたライブのチラシ。裏面には、小さな顔写真とともにわたしたちの紹介がある。
Guitar:リョウ/Bass:シンヤ/Drums:ユタカ/Vocal:サカナ
2003年10月結成。当初はリョウがボーカルも務めていたが、2004年3月にサカナが加入。サカナの詞世界と曲がマッチし、人気を博す。
わたしは椅子から立ち上がり、そのチラシをビリビリと縦に裂いた。
「……終わりね」
「カナ……ごめん。約束、守れなかった」
遼は俯いたまま、弱々しく言った。
確かに出逢ったばかりの頃、遼はわたしに言った。「ずっと一緒にうたい続けてやる」と。けれどそんなの本気で信じていたわけじゃない。
だけど、わたしがうたえる場所は此処だけだった。
「……このライブはどうするの?」
「これを最後にしようと思う。……せめて、Fishersとして、有終の美を飾りたい」
わたしは頷き、そのまま喫茶室を出た。
目の前の柱には、べたべたと先程破いたのと同じチラシが何枚も何枚もしつこいほどに貼られていた。むしゃくしゃして全部引き裂いてやりたいと思ったけれど、遼の俯いた姿を思い出してやめた。
1Kの自分の部屋へ帰ると、いつもに増して寒々しく感じた。
喉が渇いていたけれど、そのままベッドに直行し布団の中にもぐりこむ。わたしは小さい頃から、布団の中がとにかく好きだった。身体がぬくぬくとして、安心できるから。
そして、枕元に無造作に置いてあるノートを手に取った。表紙には「うたうさかな 5」とある。
「さかな」はわたしの幼い頃のあだ名だ。本名は、
佐渡カナ。カナという名前の同級生が多かったため、苗字の頭文字である「さ」と「カナ」を合わせて「さかなちゃん」と呼ばれていたのだ。(アクセントは「さ」にある。間違っても、「魚」と同じく「か」にアクセントを置いてほしくない)
特に気に入っていたわけではないけれど、うたって生きていこうと思った時、「さかな」という名はインパクトがあるだろうと思ってそのまま使っていた。けれど、それももう終わりなのだ。
わたしはパラパラとノートをめくり、新しいページを開く。枕元に常備しているボールペンを取り、思いついた言葉を書いた。
終焉、潰えた夢、散り散り、孤独……
マイナスイメージの言葉ばかりが浮かんだ。まともな詞を書けそうになかったので、そのままノートを閉じた。
メロディが欲しかった。音が聴きたいと思った。
わたしは外へ出るためにジャケットを羽織り、ミュールをつっかけた。
向かう先は……駅前だ。
冷たい木枯らしがぴゅーぴゅーと音を立てているというのに、駅前には数組のストリート・ミュージシャンが居た。
わたしは階段のそばに立ち、手すりにもたれながら耳を澄ませて音を聴いた。ごちゃごちゃと交じり合って聴こえていたのが、しばらくすると良い音だけ聴こえるようになる。
終わりを知っている だから君は泣いている
僕は立ち尽くす 手をさしのべられないまま
耳に残る
詞、旋律。
わたしは音の出所を探した。………居た。
ポンポンのついた白いニットの帽子を目深に被り、細い黒縁の眼鏡をかけ、黒と深緑の太いボーダーのマフラーをぐるぐる巻きにした青年が、独りギターを鳴らしながらうたっていた。服装は黒いアウターにジーンズとシンプルなのだが、とりあえずニット帽とぐるぐる巻きのマフラーという出で立ちが目立っていた。
その青年は、人気の少ない脇道のそばにある自動販売機の横に座っていた。楽譜も何も広げていないし、他のミュージシャンのようにまわりに人も居なかった。
君へ哀しい唄を贈ろう 僕に出来るたったひとつ
受け取ってくれなくていい 僕は此処でうたっているから
わたしはそっと瞳を閉じて、哀しくもあたたかいその唄に浸っていた。
「皆さんに、報告しなければならないことがあります」
まだライブの熱狂が覚めやらぬ、ステージの上で。遼が静かに切り出した。
どこか沈んだような遼の声音に何かを感じ取ったのか、客席は急にシーンと静まり返った。
「Fishersは…………今日を最後に、解散することになりました」
解散、という言葉とほぼ同時に、水を打ったように静まっていた客席はどぉっと沸き立った。悲鳴のような声も聞こえる。
わたしは、マイクを握ってステージの中央に立っていた。地面が揺れていると感じた。
「皆で話し合った結果です。これからはそれぞれの道を行きます。……ありがとうございました」
淡々とした遼の声が、耳を素通りしてゆく。揺れている。
客席はまだ沸き返ったままだ。どうして、の声が溢れている。
「Fishers最後の曲です。聴いてください」
また、客席は静かになった。今度は、かすかなざわめきを残したまま。
遼が振り返って、わたしを、豊を、真也を見る。打ち合わせてあった。最後の曲は、わたしたちが初めてうたった曲――「
飛魚」。
前奏が始まる。けれど、ステージはまだ揺れている。音は室内に満ちている。けれど、わたしの身体に響かない。
歌詞はちゃんと頭の中に浮かんでいる。
奇跡を集めた飛魚は 夢と共に虹へ向かう――――
途端に、わたしの脳裏にぶわっと過去がフラッシュバックした。
この詞を書いた、夢に溢れていた頃のこと。三人が出逢い、わたしの「飛魚」の歌詞を見て、皆で曲を作ったこと。オーディションに落ちても、次へと邁進する力があったあの頃。
う た え な い … … … …
もうメロディは、歌い出しの部分をとっくに過ぎていた。
わたしはボロボロと涙をこぼしながら、がくりとステージに膝をついた。
まだ……揺れていた。
そしてわたしは、此処に居る。馴染み深い駅前に。
階段の端に腰かけて、ずっと唄を聴いている。あの、哀しくもあたたかい声の唄を。
自分ではうたえないけれど、音を聴くのは心地よかった。やはりわたしは、音楽なしでは生きてゆけないのだと確信した。
結局――最後の曲はうたえないまま、わたしたちFishersは幕を閉じた。誰も、何も言わなかった。わたしはただ、うたうのが苦しくなってしまった。
遼と真也は音楽の道から足を洗い、就職活動を始めたらしい。そんな噂をわたしの耳に入れてくれた豊は、もうすでに別のバンドでの活動を再開していた。
うたえないわたしは、音に浸るために此処へ通った。
彼は、ほぼ毎日其処に居た。時間は決まって、夕方の五時から六時。同じ白いニット帽とマフラーを身に着けて。いそいそとギターケースを抱えてやって来て、どっかと居座り気儘にうたう。さすがに毎日聴いていると、曲のレパートリーも覚えてしまった。
けれどあの日聴いた唄は、最近うたっていない。代わりによくうたうようになった唄がある。
さあ行こう 手を繋いで 光あふれる地の果てへ
怖くないから 何よりも 君の笑顔が勇気の糧
静かな、けれど前向きに明るいメロディーに乗せた
詞は、知らず知らずのうちにわたしの身体を巡り、響いていた。
さあ行こう 走り出そう 夢叶う希望の果てへ
信じていい 何よりも 君との絆が僕の誉れ
わたしは口ずさんでいた。
かすかな、かすれた声で、うたっていた。
ギターの余韻を、いつもとは違った心地で聴いた気がした。
わたしの口ずさむ唄が聴こえたらしい彼は、放心したようにわたしの方を見つめていたが、のっそりと立ち上がりギターを抱えたままわたしの目の前まで歩み寄ってきた。いつも座っているからわからなかったが、ひょろりと背が高かった。
「……覚えてるの、俺の唄」
彼の地の声は、うたっているときの明朗さは少なく、ぱさぱさと乾いたような声だった。わたしはこくりと頷いた。
「毎日、あなたの唄を聴きに来てるから」
彼はじっとわたしを見つめ、その後でまたおもむろに口を開いた。
「……一緒にうたってみる?」
今度は、わたしが彼を見つめる番だった。そんなわたしに、彼はアウターのポケットから取り出した、何度も折りたたまれた紙を広げて渡した。……楽譜だった。
几帳面そうな細い線で、音符とコード、歌詞が書かれている。
「…………“誉れ”」
楽譜の上部に、少し大きめに書かれた文字を読み上げる。
「……それが、タイトル。……で、俺の名前」
「え?」
彼はしなやかな人差し指で、タイトルの部分をトントンと叩いた。
「俺の名前。……ほまれ。漢字は、違うけど。保つに、希望の希」
保希。
……希望を保つ。
わたしは、「良い名前だね」と微笑んだ。
「わたし、佐渡カナ。カナの字は……これ」
そう言って、わたしは譜面にあるひとつの文字を指差した。
叶
それが、わたしの名前。
彼は――保希は、「へぇ。良いな」と唸った。
「ねぇ」
わたしは楽譜に目を落としながら、保希に声をかけた。
「本当に……わたし、うたって良いの?」
保希は大きく頷いた。
「ちょっとしか聴こえなかったけど……声、綺麗だと思った。……きっと、この唄にも合うから。……あと……」
言葉尻が途切れる。保希は頭を掻いた。
「君が……叶が良ければ……、俺の唄、他のもうたってほしいんだ」
わたしは、まだ、うたえる。
うたう場所が、此処に在る。
わたしは頷く。保希はあまり動かない表情で、けれどほっとしたように頬を緩めた。
そして、保希はいつもの場所に座る。わたしはその横に立った。
演奏が始まる。ここ数日、何度も何度も聴いたメロディが身体中を巡ってゆく。響いてゆく。
わたしは大きく息を吸い込み、保希と共にうたい出した。
「未来への声」短編部門 参加作品