神様の涙 (4/14)
バタバタッと音がして、大粒の雨が急に降り出した。
今まさに茶店を出ようとしていた、笠を深くかぶった旅装の若い男は、軽く肩をすくめた。
「あら、また夕立ちかい」
店の奥から盆を持って姿を現したおかみさんが声をあげる。
「ここのところ、毎日だよ。決まってこのくらいの時間に降るねぇ」
「……悪いが、もう少し休ませてもらうよ」
おかみさんは「はいはい」と気の良い返事を残し、男の使った湯呑みと菓子皿を下げに奥へ引っ込んでいった。
男は、先程まで座っていた軒先の長椅子にまた腰を下ろした。笠をかぶったまま、ちらりと空へ目を向ける。その眼光は鋭かった。かすかに覗く風貌から、二十代前半くらいの青年と知れる。
ぽっかりと浮いた雨雲はあるが、晴れた部分が多くを占めている。きっとすぐに止むだろう。
「ああ、また、空の神様が泣いていらっしゃる」
青空の日に降る雨を、母はそう言っていたなと男は思った。そして、共に涙を流すのだ。空に還った父を想って。
遠い故郷でも……この神様の涙が降り注いでいるのだろうか。それを、母は独りで眺めてまた涙しているのだろうか。
主君に命を預け、任務の完全なる遂行を求められる身として、なるべく私用での外出は控えてきた。もちろん今回の旅も任務の一環であり、使命を見事果たしての帰途であった。
故郷を離れて三年、一度も帰ったことはない。母へは、時節の簡単な文しか出していない。
雨が止み、さぁと湿気を含んだ風が動いて陽光を揺らした。
男は立ち上がった。この旅が終われば一度、母の姿を見に帰郷しようという想いを固めて。
歩き出した男の背を気持ちよく押す風に、故郷のにぎやかな声を聴いた気がした。
(短篇小説「
忍びの者」の番外篇です。)
つきゆきはな (1/9)
冬の空は、凍えて澄み渡る。広がった雲の間から注ぐ月光も、冷え冷えと地上を照らす。
蕾を綻ばせたばかりの椿は、ほうと白い息を吐いた。
「また、貴方に逢うことができましたわ」
東の空を昇りはじめた居待月。雲の向こうからちらりと姿を見せた月は、椿を見つけて小さく微笑んだ――ように見えた。
椿は微かに頬を染めたあと、苦笑を漏らす。
「……そんなこと、あるはずがないわ」
手の届かぬ、雲の上の存在。全てを見下ろす月にとって、一輪の椿など眼中に入りさえしないだろう。
「貴女はいつも、物憂い表情をしていますね」
ひゅうっと鋭く通り抜けた風とともに、声が聞こえた。椿が顔を上げると、くるくると舞い遊ぶ雪が優雅にお辞儀をした。
「お久しゅうございます。貴女に逢えるこの日を、心待ちにしておりました」
「まあ……」
椿ははにかんで狼狽し、小さく首を振った。
雪は絶え間なく、椿の紅い花弁に結晶を降らす。
「燃えさかる炎の色にも似た、美しい貴女なのに……心は冷えきっている。叶わぬ想いに凍えている」
うつむく椿の頬を、雪の冷たい指先がそっと撫でた。
「幾年も……私は、貴女の愁えた表情しか知りません。貴女の笑顔は、さぞかし美しいでしょうに」
「わたくしには、もったいなきお言葉にございます」
先程よりも開きはじめた花弁は風に細かく震え、雫をひとつ、滴らせた。
「わたくしはただ……また今年も、こうしてあの方を見つめられるだけで、幸福でございます」
雪は何も言わず、ただ少し淋しげに目を伏せた。
雲が空全体に広がり、月を覆い隠す。それでも椿は、月の姿を探して空を仰ぐことをやめない。
「また、参ります」
その夜は、名残を惜しむかのようにしんしんと、雪が降り続いていた。
待ち人 (10/6)
痩せこけた君の手首を掴む。比喩でなく、本当に折れてしまいそうで怖い。
そのまま抱き込んだら、胸の中で君は忍び笑いを漏らした。
何、と訊くと、君は顔を上げて、わたしは硝子じゃないのよと言った。
君の細い指が僕の掌に添う。握られた掌を、君は自分の胸に押しつける。
ね、心臓、動いてるでしょ。
温かいでしょ。生きているのよ。
僕はうん、と頷いて、今度はさっきよりも強く君を抱き締めた。
ねぇ、わたしは必要?
僕の胸に顔を埋めたまま、君が問う。
君が居なくなればとても淋しいよ。僕はそう答えた。
君の望む答えになっている自信はない。だけど、それが僕の正直な気持ちだ。
君はいつだって、痛々しい程まっすぐにぶつかってくれるから、僕も同じようにしたいんだ。
僕は君を、唯一無二の存在だと思ってる。君が居なくても僕は生きてはいけるけど、でも、君の代わりなんて絶対見つからない。君が僕の傍に変わらず居てくれたら、とても嬉しい。
そう言ったら、君はまた少し笑う。
……それでも、必要とは言ってくれないのね?
諦めの混じった、悲しげな表情。
君はその言葉が欲しいのだろうか。それが、君の最も望むこと?
もしそうだとしても――その言葉を、僕は、言わない。
だって君は、休息を必要としてる。そんな君に、足枷となるような言葉なんて、僕は決して与えられない。
だけど――。
待ってるよ、と僕は言った。
君を、いつまでも待ってる。だって君は、僕の唯一の人だから。ずっと、待ってる。
僕の体にしがみついていた君の腕が、するりと外れた。
君は穏やかな笑顔を残して、ゆっくりと僕に背を向け、去っていく。
僕は眼を伏せた。長く君の姿を見ていたら、後ろ髪を引かれる想いが強くなってしまうから。
君の微かな体温が、まだ僕の体に残っている。
僕はそのわずかな熱を抱えて、君の帰りを待つ。
全ては運命 (6/13)
それは唐突だった。
ぷつり。
私と世界を繋いでいた糸が切れたのだ。
声をあげる暇もなく、私は無の空間へ放り出された。
くるくるくる。
落ちてゆく。堕ちてゆく。
底知れぬ闇の中へ潜っていくような感覚だった。
私は抗わなかった。――否、抗いようがなかったのだ。
それは違えられぬ運命であることを知っていたから。
遠くに小さな白い光が見える。
私はそれに向かって落ちていっているのだとわかった。
すると心が温かくなって、腹の底から何か新しい感情がむくむくと生まれてくるのを感じた。
私はあの光を掴むのだ。
そうすれば、新たな世界と繋がることができる。それもまた、運命だ。
私は手を伸ばした。
IMAGINE No.2 参加作品
Rainman (11/2)
指先から熱が消えていく。息を吹きかけてこすり合わせても、少しも温まらない。
わたしは一層、身体を縮こまらせて自分の足を胸に抱き込む。残った体温をかき集めるように。
ふと、わたしの視界が濃い青色に染まった。
人工的な色――広げられた傘の色だと判断できるまでに、数秒を要した。
公園の片隅、藤棚の下にあるベンチ。蔓が巻き付いていて多少の雨は凌げるが、わたしの髪も肩もすっかり濡れている。雨に濡れながら独りうずくまる怪しい女に、傘を差し掛けるような奇特な人間がいるとは思わなかった。
その人は、わたし自身には興味がないようだった。傘に入れてくれてはいるけれど、わたしに視線を寄こそうともしない。
背の高い男の人だ。体つきもがっしりしている。引き結ばれた唇の口角は両端とも下がっていて、仏頂面。何となく、寡黙な性格を連想させた。
その人が何も言わないので、わたしから話しかけるのは憚られた。やがてわたしも、その人を見上げていた視線を落としてぼうっと雨の降る地面を見つめた。
雨はわたしの涙を誘う。
泣けないわたしの背中を、雨は優しく撫でさすってくれる。
だからわたしは、雨の日にだけ泣く。心の掃き溜めで今にも溢れそうになっている涙を、解放する。
降り注ぐ小雨と共に、わたしの瞳からも雨粒が生まれて頬を伝う。
彼はやはりわたしを見ない。
泣きはらして真っ赤に腫らした目を曝すことを思えば、その方が有り難かった。
この憂鬱な時間を共有できる人がいると言うのは初めての体験で、少しだけわくわくした。
しばらく、雨が止まなければいい。
あの日の言葉 (9/29)
今でも、時々思い出す。
貴方がわたしにくれた言葉。
――あれは、本当だったのか。思わず疑ってしまうくらい、それは夢のような出来事だった。
「君が、好き。大好き」
受話器を通したその声は、わたしの鼓膜を震わせて、鼓動を一気に速まらせた。
声が、詰まって出て来なかった。
脳裏は何が何やらパニックで、顔が異常に火照っていることだけ、感じていた。
ずっと貴方が好きだった。貴方しか、見ていなかった。
けれど、どこかで、手の届かない憧れの人だと思い込んでいた。
貴方の屈託ない笑顔、睫毛の長い大きな瞳、ふわふわした癖のある髪、すべてが、好きすぎた。
だから、わたしは――。
叶えられなかった初恋は、
今でも時々、わたしの心を締め付ける。
(お題提供:
Secret Wordsさま)
幼き星 (12/20)
誰かに教えてもらった。
星は昼夜関係なく空に在るものなのだ、と。日中は太陽が明るすぎるから見えないだけなのだと。
僕にはとうてい信じられない話だった。
「お星さまはきらきらしているのに、どうして昼間はきらきらしないの?」
幼い僕はそう問うたと思う。
その答えは返ってこなかったようだ。何故なら僕はまだ、同じ疑問を抱き続けているのだから。
明確な答えはわからない。だけど、その理屈は納得できそうだと今なら思う。
星は太陽より弱いのだ。弱いモノは強いモノに屈するしかない、それが条理。
そんなの知りたくなかった。
お星さまが空から落ちてきたらダイヤモンドになるんだと、信じて疑わなかった幼い心が懐かしい。
出来ることなら、夢見たままで居たかった。
時間は容赦なく平等を振りまき、僕の心は歪んでしまった。
すっきりと晴れた空、たなびく雲、ぬくもりを降らす陽光、木々を揺らす微風。美しいもの、恵みを与えるもの。僕にはそれらが眩しすぎて、苦しくなる。
僕には届かない。
僕は非力な星だ。きらきらと瞬くことすらできぬ、星だ。
IMAGINE No.2 参加作品
ひとひら(9/29)
かさっ、と微かな音。
ともすれば聞き逃しかねないその乾いた音は、わたしのすぐ傍で聞こえたようだ。
何か机の上から落ちたのだろうか。
そっと床をのぞきこんでみると、手を伸ばせば届くくらいの位置に、小さく折りたたまれた紙らしきものが落ちていた。
わたしはその正体に思い当たり、授業中の先生が板書をしている隙を見計らってそれを拾い上げる。
規則的な折り目を、教科書の陰でちまちまと解いてゆく。開いてみると、それはやはり真保からの手紙だった。
ちらっと、一列挟んで隣の席にいる真保を見やる。真保は細いフレームの眼鏡の奥でにっこり微笑んだ。
手元ある薄い水色のメモ用紙には、真保のきっちりとした文字が躍る。
知ってる? アンタの大好きな明戸あけとくん、彼女と別れたんだって!
驚喜に、思わず手紙を持つ手が震えた。
仲睦まじかった彼女と別れたからって、すぐに良いことが起こるわけでもないけれど。彼女持ちとそうじゃないのは、雲泥の差がある。
ほんの少しでもチャンスがあると感じられるから。
知らなかった……。
わたしも、いつまでも見つめてるだけじゃダメだね。
メモの余白に返事を書いた。
まるでわたしの性格をそのまま表したような、ちんまりと自信なさげな文字。
だけど、噛みしめるようにしっかりと書く。
わたしは強くなりたいから。
少しでも自信を持てるように。そうしていつか、彼の隣を歩けるように。
一片一片の文字に、想いを込めた。
(お題提供:
Secret Wordsさま)
その感情の、名前は知らない (7/29)
確かに彼は、わたしの初恋の人だった。
だからと言ってこんな展開になるなんて思ってもみなかった。
彼の口から出た言葉を、何度目かわからないほど脳内で反芻する。
「……おーい。聞こえてる?」
「聞こえてる……けど」
やっぱり聞き間違いだろうか……。
そう思ったけれど彼はご丁寧にもう一度言ってくれた。聞き間違えられぬほどにハッキリと。
「俺と結婚しない? って言ったんだけど」
「……そんな、さらっと言われても……」
戸惑うのも無理はない。
だってわたしたちは現在付き合っているわけでもなければ、過去に男女の関係に発展したことすらないのだ。
わたしが一方的に想っていて自然消滅した初恋の相手。
――だったはずなのに……。
「難しく考えないでよ」
彼は、ちょっとどこかご飯食べに行こうよ、と同じ響きで結婚について語りだす。
「俺も君も二十七。結婚してもおかしくないだろ? 君はしつこい年下クンを振る口実が欲しい。俺は綺麗で素敵な奥さんというステイタスが欲しい。そしてお互い良くも悪くもない印象を持ってる。ちょうど良いんじゃないかと思うんだけど」
彼の軽い行動の意味が、ようようわかってくる。
いわゆる偽装結婚のお誘いだったわけだ。何年か前のわたしだったら即お断りしていたと思うが、今は良い話に思える。
「ああ、これは誤解しないでほしいんだけど、俺だって思いつきで君を選んだのじゃないから。君のことが好きだった頃もあったからね、遠い昔の話だけど。君の魅力はまだまだ俺には効くみたいだ、ちょうどほろ酔い具合に」
ほろ酔いの恋。ほろ酔いの関係。
恋に疲れたわたしにはそそられる響きだ。
のめりこみすぎも考えもの。彼の言うとおり“ほろ酔い具合”の関係が最も心地よいのかもしれない。
それなら彼は適任だろう。
柔和な笑顔と、ふわふわとわたしの心を持ち上げてくれる巧みな話術を持っている。馴染みの仲であるから気心も知れている。
「そうね……わたしにはちょうど良いかも」
「君だけじゃなく、俺にもね」
微笑んだ彼はちょっと屈んで、わたしの頬に子供じみたキスをした。
わたしたちだけの関係が、今はじまる。
(お題提供:
Secret Wordsさま)
長い夜が終わる (7/21)
わたしはいつからか、貴方への想いを暗闇の中に落としてきてしまったらしい。
ふと気づくと、貴方の存在がびっくりするほど薄れていた。
忙しさにかまけてメールも電話もしなかったけれど、何も思わなかった。
いや、正直に言ってしまおう。
今度逢うのが億劫だな、と感じてしまったのだ。
これって恋をしている女の子の心情としてはかなり似つかわしくないのではないだろうか。
このまま何もかも消えてしまえばいいのに。
……そう思ってみても何が変わるわけでもなく。
今度逢うと、罪悪感に苛まれそうだ。
貴方に対して心ときめかないことを改めて確認させられてしまって。
逢ったからもう一度想いが再燃する、なんてことはあり得るのだろうか……。
まぁいっか、逢う日が決まってから考えよう。
わたしはそう思い直した。
落としてしまった恋心を探すこともせず、暗闇のなかでうたた寝。
長い長い、夜。
いつ明けるのか、まったくわからない夜。
(お題提供:
Secret Wordsさま)