群雄割拠の時代。
下克上が繰り返される世の中で唯一、無の境地でもって主君に忠節を尽くす者――それが“忍びの者”。
武士の影となり、生涯日の目を見ぬ運命。そして、武士以上に命を危険に曝さねばならぬ業。
忍びの里に生まれた身であるから、
木綿は決してそれを理解していない訳ではなかった。けれど、今度ばかりは。
はだけた夜着からのぞく、
玄利の素肌の胸に頬を寄せる。すると、声が降ってきた。
「
如何した、於木綿」
木綿がそっと面を上げると、そこには台灯籠の明かりにぼんやりと照らされた玄利の顔があった。意志の強い瞳は、黒々と輝いて木綿を映す。
「いえ……」
木綿は瞳を伏せたが、顎に手をかけられてグイと上を向かせられた。
「何もないことは無かろう。もの憂げな顔をしておるではないか」
今更に、自分の迂闊さを感じて木綿は恥ずかしくなった。
これから戦地へ向かう夫に対し、逆に心配をかけてしまうなんて。
「とても申し上げられませぬ。……忍びの里の女として……恥ずべきことゆえ……」
そう言ってまた俯いてしまった木綿に、玄利は優しい瞳を向ける。
「良い。於木綿の考えておることなど、この玄利にはお見通しじゃ」
木綿が気の弱い
女子だということはわかっている。だから、女忍びにもなれなかった。けれど玄利は、そんな木綿を好いていたから嫁にしたのだ。――いつか、こんな日が来ることもわかっていたけれど。
玄利はもぞりと寝具の中で身じろぎし、木綿の身体を強く抱きしめた。
「お見通しじゃが……於木綿。こればかりは
如何にもならぬ。私は父の跡を継ぎ、主君に仕えて戦地に赴かねばならぬ」
これまでは、他の忍びと組んで、必要な時に間諜として働くだけだった玄利。しかし、戦忍びとしてとある城主に仕えていた玄利の父が亡くなったことで、その業を玄利が継がねばならなくなったのだ。
戦忍びの任務は、すべて戦地で行われる。
主君へ絶対の忠誠を誓い、主君へ有益な情報をもたらす為に働き、主君の危機に際してはその身をもって守護する。主君の影武者となり、敵の目を誤魔化すこともある。
責任の重い業であるが、その分、実力のある者しか雇われることはない。玄利の能力が認められたことは嬉しい。けれど、玄利の命が失われてしまうかもしれないと考えると、つらくて堪らなくなってしまう。
「承知しております……」
けれど、木綿は頷くしかないのだ。“忍び”の業に誇りを持ち、夫を送り出すことしか。
そんな木綿に、玄利は哀しいほど朗らかな笑顔を見せた。
「そんな顔をしてくれるな、於木綿。私は必ず、そなたの許へ帰って来ようぞ」
玄利の無事を祈って待ち続ける木綿は、その言葉を
縁とするしか無かった。
返事の代わりに、木綿は玄利の背に優しく腕をまわした。
そうして玄利は、旅立って行った。
木綿は、今まで以上に精を出して働いた。里には、木綿と同じような境遇の女子はたくさん居るのだ。自分だけめそめそしている訳にはいかない。懸命に働いている間は、少し淋しさを紛らわせることができた。
それに、嬉しいこともあった。
玄利と別れて三月後、
赤子が腹に宿っていることがわかったのである。
玄利の言葉と赤子の存在が、木綿を支えていた。ずっと、玄利を待てると思った。生き延びてさえいてくれれば、必ず再び、玄利と会うことができるのだから。
――生き延びてさえ、いれば。
報せをもたらしたのは、間諜忍びのひとりであった。
玄利の仕えている城主へ、刺客が放たれた。しかし、刺客が殺したのはその影武者であった。――その影武者が玄利であった、と。
木綿は泣いた。涙枯れるまで泣いた。枯れた涙で、声で、泣き続けた。玄利の遺品として城主が送ってきた、忍び刀を胸に抱いて。
食べ物が喉を通らなくなった。だから何も食べなかった。
木綿のことを心配して様子を見に来た玄利の母は、そんな様子の木綿を見て、木綿の頬を容赦なく打った。
「お前さんがそんなことで、赤子はどうするんだい! お前さんは玄利を亡くした。けれどお前にはわたしが居る。お前さんの母君が居る。里の皆が居る。……赤子には、木綿、お前さんしか居ない。木綿がすべてなんだよ!」
叱責しながらも、玄利の母は泣いていた。
木綿もはらはらと涙を流しながら、六月の腹にそっと手をあてた。
「御免なさい、
養母様……。御免なさい、わたしの赤子……」
御免なさい、玄利様。
木綿は強く生きていきます。
わたしの赤子と、里の皆と共に。
生まれた赤子は、玄利の一字を取り、「
玄雅」と名付けられた。
「……切なくて」短編部門 参加作品