Dolly

〜 She is a doll bore darkness 〜

ススム | モドル
 彼女は、人形のようだった。
 精巧に創られて、大事に大事に手入れをされて、アンティークの飾り棚に並べられている人形のようだった。
 涼しげなアーモンド形の瞳、黒いミディアムヘアー、透き通るような肌の色、赤く潤んだ唇、すらっと細い四肢。
 けれども貴明は、そんな彼女の容姿だけに惹かれたわけではなかった。
 何より彼女は、とても表情が豊かだった。よく微笑み、飾り気なく笑い、ちょっとしたからかいに拗ね、他人の苦しみと共に泣いた。
 だから彼女はまぎれもなく人間なのだけれど、ときどきふと目を向けると、本当に命宿るものなのかわからなくなるときがある。
 今も――、初夏の陽射しが差し込む廊下の窓際に立ち、窓枠に軽く手をかけ、視線を真っ直ぐ外に向けている彼女は、まるでドールハウスに飾られた人形の一体に見えた。
莉沙りささん」
 貴明が呼びかけると彼女はゆっくりと振り返り、俺をみとめてふわりと微笑んだ。
貴明たかあきくん」
「どうしたんですか? 茉佐まさ、今日日直なんでまだ中にいますよ」
 莉沙は、貴明の中学からの親友、城見しろみ茉佐の二つ年上の姉である。よく城見家に上がりこんでいる貴明は、すっかり家族とも顔見知りになっているのだった。莉沙とも、こうして同じ高校に通うようになる前から既に仲良くなっていた。
「そうなの? 茉佐、帰りに用があるからって言ってたから来たんだけど……」
 小首を傾げて、黒目がちな莉沙の瞳が真っ直ぐに俺を見つめてくる。そこに何か、虚無感を覚えるのは自分だけだろうか?
「姉さん、貴明」
 ひょっこりと教室から出て来た茉佐は、鞄ではなく教室の備品の類を抱えていた。
「これ、職員室に持っていったら終わりだから。もうちょっと待ってて」
 普段はまったく似ていないと感じる姉弟だが、微笑んだ時のやわらかな表情はどこか似ているように思う。
 なるべく早くね、と茉佐の後ろ姿に言葉を残した莉沙は、振り返ってまた貴明を見つめた。
 息が、詰まった。
「……座って、待ってよっか?」
 風を孕んで黒髪が翻る。貴明は大きく息を吐き出した。


 その瞳は、深い、深い……闇だった。



「なぁ、貴明。最近俺ん家来てないよな? 明日土曜日だし、今日泊まりに来ないか?」
 地元の駅から家までの帰路。莉沙を真ん中にして、貴明が右側、茉佐が左側を歩くのがいつしか習慣になっていた。
 茉佐とともに、莉沙も貴明に目を向けている。
「そういえば、行ってないな。いいよ、明日も暇だし」
「ホント久しぶりだよな。昨日ちょうど、母さんが『最近、貴明くん来ないわねー』なんて言ってたんだよ。ま、期末テストとかで忙しかったしなあ」
 赤茶色の屋根をした城見家が見えてきた。貴明の家は、そこからあと三分くらい余計に歩かなければならない。
 貴明の視界は、ひとつの人影を捕らえた。ちょうど城見家の目の前あたりだ。玄関に背を向けて、視線を空に止めて、微動だにせず立ち止まっている。
「………姉さん」
 低い、かすれた声が茉佐から発せられた。
 そして貴明が見たのは、病的なほどに顔を青ざめさせて、瞳を前方の人影に縫い止められてしまった莉沙の姿だった。
「貴明」
 貴明の名を呼んだ茉佐は、これまでに無いほど真剣で強張った表情をしていた。
「姉さんを、背に隠して立ってくれないか。彼奴に、見つかるわけにはいかないんだ」
「……わかった」
 理由など必要なかった。茉佐と莉沙の様子を見れば、何を守るべきかは一目瞭然だ。
 貴明はすっと身体を莉沙の前に立ちはだからせた。貴明は莉沙より頭一つ分以上背が高いので、莉沙は簡単にその陰に隠れることができた。
 茉佐はひとつ息を吐き、決心したように顔をあげて足を踏み出した。五、六歩歩いたところで、人影が茉佐に気づいて顔をこちらに向けた。
 瞳が隠れるほど長い前髪の、二十歳くらいと思われる青年だった。表情はうかがい知れなかったが、つかつかと茉佐に歩み寄りこう怒鳴った。
「莉沙を渡してもらおうか!」
絡伺らくし兄さん、知らなかったのか?」
 それは今まで聞いたことのないほど、ぞっとする冷ややかな声音だった。貴明は無意識に、左手で右の二の腕を掴んでいた。
「姉さんはここには居ない。伯父さんと伯母さんから聞かなかったのか?」
「でたらめを言うな! わかってるんだ、おまえたちがグルになって俺から莉沙を奪おうとしているのはな! 莉沙は俺のものなんだ! 返せっ!」
 青年が茉佐の胸ぐらを掴もうとする。茉佐は伸びてきた青年の手首を掴み、ぐりっと捻った。
「痛……っ。は、放せ……!」
「放してほしかったら、おとなしく帰ると誓うんだな。……もう一度言う。姉さんはここには居ない。おまえの欲しているものはここには無い。……わかったか?」
 茉佐の威圧的な物言いとは対称的に、青年は項垂れた。手首を解放されると、のろのろと踵を返し、そのままよたよたと歩き出した。そして青年が十字路にさしかかろうとした時、右側から黒塗りの高級車が姿を現した。青年はその後部座席に乗り込み、そのまますぐに車は走り去っていった。
 茉佐がこちらを振り向いたので、貴明はハッとして莉沙を振り返った。
 その瞳は、何も映していないかのように曇っていた。
「莉沙さん! 莉沙さん!?」
「貴明!?」
 貴明が両肩を掴んで揺さぶっても、莉沙は微動だにしなかった。
 ――何も、動かなかった。
 茉佐は莉沙に駆け寄るなり、状況を把握したようだった。貴明に一言「姉さんを見ててくれ」と言い、慌てて自宅へ駆け込んでいった。



「大丈夫、落ち着いたよ。今は眠ってる」
 音を立てないように、静かに莉沙の部屋のドアを閉めながら、茉佐は安心したように笑んだ。
「彼奴も、しばらくは来ないだろうし……」
 独り言のように言ってから、茉佐は貴明の視線に気がついたようだった。
「ごめん、貴明。巻き込んじまって。……でも……おまえさえ、良ければ……知ってほしいんだ。姉さんのこと」
 茉佐の視線を受けとめる。貴明は、ゆっくりと頷いた。
「……聞かせてほしい」
「良かった。……正直、おまえにならって、ずっと思ってたんだ」
 ここじゃなんだから、と茉佐はすぐ隣の自室のドアを開けて貴明を促す。俺がいつもどおりベッドにもたれて座ると、茉佐は少し間隔を開けて隣に胡座をかいた。
 ひとつ、大きく息を吐くと、茉佐は真っ直ぐ貴明を見た。
「貴明。姉さんは……。一度、死んで……蘇生したんだ」
「……そせい……?」
 茉佐の言葉はただの文字として貴明の頭のなかを巡り、しばらくしてやっと、正しい漢字とイメージが繋がった。けれどそれは到底信じられるようなものではなかった――茉佐が発した言葉で無ければ。
「あれは……姉さんが中一の頃のことだから……貴明とはまだ出会ってない頃のことだった……」



 姉さんが中一、俺が小五の夏休みだった。
 俺と姉さんのふたりで、従兄弟の家へ遊びにいったんだ。海に近い豪邸。伯父さんが会社を経営してて、金持ちなんだ。
 その従兄弟っていうのが、今日家の前に来てた、あの人――絡伺兄さんと、万羅かずら姉さん。絡伺兄さんが姉さんより三つ上で、万羅姉さんが絡伺兄さんより九歳上なんだ。
 海に……俺と姉さんと絡伺兄さんの三人で泳ぎに行って……そこで、姉さんが溺れたんだ。海草に足を取られて……俺と絡伺兄さんの目の前で。
 ライフセーバーの人に引き上げてもらった時……姉さんは、息をしてなかった。人工呼吸をしてもらっても、呼吸は戻らなかった。それは確かなんだ。俺、ライフセーバーの人が、力無く首を横に振ったのを……よく、覚えてる。でも何が何だかわからなくて、呆然としてた気がする。
 絡伺兄さんは、半狂乱になってた。……絡伺兄さんは、姉さんのことが好きだったんだ。当時の俺にでもわかるくらいに、な。
 万羅姉さんっていうのが、当時、医学部の大学院に通っていたんだけど……歳が離れてるせいか、すっごく絡伺兄さんに甘くて。
 その時も、半狂乱になった絡伺兄さんのために……大学院の教授や何やらって人員を駆使して……姉さんを、生き返らせたらしいんだよ……。
 だけど、俺たち家族はおろか、伯父さん伯母さんも知らなかったんだ、姉さんが蘇生したことを。
 ……知ったのは……事故から一年後くらいだった。
 一命は取り留めたけど面会謝絶状態で入院していると聞かされてた姉さんが、ふらふらと帰ってきたんだよ、家までね。
 ちょっと衰弱している他、健康に問題はなかった。意識もしっかりしてた。
 父さんが万羅姉さんに連絡を取ったら、わざわざ家まで来て長々と説明してくれたよ。難しいことはわからなかったけど、簡単に言えば、蘇生した姉さんはまだ意識を取り戻していなくて、身体は生きているけど脳が眠っているような状態だったらしい。それからだんだんと意識は戻ってきたけど、身体と脳がうまく噛み合わないことも多かったそうだよ。
 だから、身体と意識がきちんと機能するまでは連絡すべきでないと思っていたと……そんなことを言ってたけど、きっと違う。知らせる気なんて無かった。
 だって姉さんは、彼奴の良い玩具になっていたんだから。彼奴、姉さんの身体の自由が利かないのを良いことに、まるで人形のような扱いをしていたんだ!!
 万羅姉さんにとっては、絡伺兄さんの希望が最優先だ。姉さんが自力で脱出しなければ、きっと一生、姉さんを彼奴のもとに閉じ込めてたに違いないさ……。
 姉さんも少し話してくれたんだ。彼奴の所業を。たぶん、俺たちに言っていないこと、たくさんあると思うけど。
 万羅姉さんは、うちの父さんや母さんに、二度と絡伺兄さんと姉さんとを会わせないって約束させられて帰っていったよ。彼奴に、何て言い訳していたのかはわからない。でも、伯父さん伯母さんにも協力してもらってたから、何とか今まで保ってたんだと思う……。



 茉佐は一気にしゃべって黙ってしまった。
 無理もない。けれど貴明も、言葉が見つからなくて黙ったままだった。
 しばらく、沈黙が続いた。時計の秒針の音だけが響いていた。
「……貴明、大丈夫か?」
 口を開いたのは茉佐だった。現実の理解を超える話だ、いくら自分や莉沙とも関わりが深い貴明でも、にわかには信じられないだろうと思って声をかけたのだった。
 けれど、貴明は意外としっかりした口調で答えた。
「……おまえの言うことだから……信じるよ。あと……何か、俺に出来ることがあったら言えよ。何も……出来ないかもしれないけど……少しでも、莉沙さんの力になりたいんだ」
 混乱はしていたが、貴明はまだ冷静に判断できる自分を感じていた。自分が出来ることを、莉沙のため、茉佐のために精一杯やりたい、という気持ちだけが心に在った。
 自分は間違っていなかった、と茉佐は思った。友人としての信頼と、莉沙への確固たる想いを感じることができたからだ。
 貴明なら受けとめてくれる――。すべての事実を、そして、莉沙を。
「貴明」
 そう、貴明なら――。
 茉佐は、まっすぐに貴明の瞳を見据えた。
「……姉さんを、救ってくれ」


「……茉佐の馬鹿……っ」
 ベッドの上に上半身を起こした莉沙は、ぎゅっと掛け布団を抱きしめて呟いた。そして、ぽたぽたっと涙が滴り落ちる。
 壁一枚しか隔てていないふたりの部屋。目を覚ました莉沙は聞いてしまったのだ。茉佐が、貴明にすべてを話しているところを。
 知られたくなかったのに。
 貴明だから、知られたくなかったのに。
 茉佐の親友であると同時に、莉沙にとって一番近しい男性であった貴明だから――。
「知られたくなかった………」
 両足を曲げ、掛け布団の上からぎゅっと抱え込む。苦しすぎる想いが、少しでも鈍くなるように。
 けれど、じわじわを迫り上がってくるのは、この身を苛む声と感触。

『莉沙……俺の“お人形さんドーリィ”』

『髪を梳いてあげよう……さあ、椅子に座って……手は重ねて……足もそろえて……』

 思考は起きているのに、身体が動かないあのもどかしさ。表情も動かせなかった。どこに力を込めて良いのかわからなかった。
 皮膚を不必要なほどに撫でてゆく感触が堪らなかった。けれど身をよじることさえできなかったのだ。

『もう朝食の時間だよ。着替えなきゃねぇ……莉沙』

 あの時、彼の顔に浮かんだ醜い恍惚。繰り返し這う、下卑た愛撫。思い出すだけで吐き気がする。


 助けて、助けて、助けて!!
 何度叫んだかしれないのに、あの時、それはひとつも空気を震わせなかった。
「……たすけて………」
 あの頃は、ただ闇雲に叫んでいた。あの地獄から救ってくれるなら誰でも良かった。
 けれど今は――自分を真っ直ぐに見下ろす、彼の瞳に救いを求めていた。
ススム | モドル
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