Dolly

〜 He is a person changes dark to shine 〜

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 いつだっただろう?
 彼の瞳があまりにも澄みきっていることに気がついたのは……。
 心を見透かされて、えぐり取られるような感覚に襲われながらも、それを求めるようになっていたのは……。


 翌朝、莉沙の目覚めはあまり良いものではあり得なかった。昨日の出来事のあとだから、当然であろう。
 着替えはしたものの、まだまだ睡眠モードが抜けきらない頭のままドアを開けて一歩踏み出すと、真正面から、何かが顔にぶつかってきた。
「……いたぁ……」
「莉沙さん! すいません、大丈夫でした?」
 まだはっきり覚めない瞳で見上げて、貴明の姿を捕らえた瞬間、莉沙はぼっと頬を紅く染めた。
「あ……貴明くん……!? ご、ごめん……っ」
 どうやら貴明の腕と莉沙の顔面が正面衝突したらしかった。貴明は、おそらく茉佐のものだろうと思われるTシャツとジーンズを着ている。
 こんなふうでは駄目だ。今までは、手の届かない想いとして置いておいたから不自然無く振る舞えたのに、もうその器は割れてしまった。留めていた分増幅した想いが溢れて、身体を支配していた。
 莉沙の慌てように少し笑いながら、貴明は言った。
「俺は大丈夫です。莉沙さん、顔に当たりましたよね? 本当に大丈夫でした?」
 そして、ひょいっと莉沙の顔を覗き込む。
 視線が、ぶつかる。
「――っ!」
 耐えられなかった。
 貴明の、綺麗すぎる瞳に。
 莉沙は自分の部屋へ逃げ込み、ドアを背にしてしゃがみこんだ。
「莉沙さん!? 莉沙さん、どうしたんですか!?」
 ドンドンドン、と手荒くノックされるドア。「貴明、どうした!?」という茉佐の声も聞こえた。
 耳を塞いだ。けれど音が遮断されるわけはなかった。
「姉さん?」
 ノックが止んだかとおもうと、代わって茉佐のおだやかな声が聞こえた。
「……俺ひとりだったら、入ってもいい?」
 莉沙はしばらく逡巡したあと、ゆっくりとドアノブをまわした。そこには、いつもどおりの笑顔をたたえた茉佐が立っていた。
「貴明は、俺の部屋に入ってもらったよ」
 その言葉にほっと息をつき、莉沙は茉佐を招き入れた。小さなテーブルを挟んで、向かい合わせに座る。
「姉さん……訊いてもいい?」
 茉佐の表情は変わらず落ち着いている。莉沙はこくりと頷く。
「貴明のこと……好きなんじゃない?」
 その言葉は、意外と驚きを生むことなく莉沙に浸透していった。
 気づいてほしかった。莉沙は、気づいてほしかったのだ。
 己の穢れた身体と心の奥に微かに残る核心が、求めて止まないこの慕情を。
 莉沙が頷くのを認めて、茉佐は安堵したように微笑んだ。
「姉さん、大丈夫だよ……貴明なら。きっと、姉さんを泥沼から引き上げてくれる」
「……駄目よ」
 莉沙は目を伏せた。
「わたしは……穢れてる。貴明くんのようなひとを求める資格なんて、無い……」
「違うよ、姉さん」
 いくらか鋭い声で茉佐は言った。
「貴明は……そんな姉さんの想いもすべてひっくるめて、姉さんを救ってくれるんだよ。だって、貴明は以前の姉さんを知らない。貴明にとっての姉さんは、今の姉さんそのものだ。だから、姉さんに巣くう闇もすべて受け入れられる。受け入れてくれる……」
 莉沙は耳を塞いで頭を振り、それを受け入れようとしない。茉佐は、なかば混乱状態の莉沙の肩に、やさしく腕をまわす。
「ごめん、姉さん。急ぎすぎたかもしれない……。でも、わかってほしいんだ。僕は――僕達は、何より姉さんの幸せを望んでる。いつまでも待ってるから……頼ってきて。いつか……」
 茉佐が濁した言葉の先を、莉沙は心で受けとめていた。
 『いつか』
 このひとことが、莉沙の気持ちを軽くした。



 家の電話が鳴った。
 午後一時すぎ、莉沙が今朝取り乱してしまったことついて貴明に謝り、和やかな昼食が終わったくらいのことだった。莉沙が電話を取りに行こうとすると、茉佐が「俺が一番近いから」と、立ち上がって受話器を取った。
「はい、城見です。……伯母さん?」
 一瞬で、莉沙の纏う雰囲気が固くなったのがわかった。貴明は、莉沙の様子を気遣いつつもただじっと座っていた。
「え? 伯母さん、泣いてちゃわからないよ。もう一度言って?」
 伯母が泣いている?
 莉沙は、這い上がってくる恐怖を何とか押し込めながら、充分には働いていない思考で状況を把握しようと努めた。
 相槌を打つ茉佐の表情は、みるみる険しくなってゆく。
「……うん、わかった。とにかく姉さんに話すから。……じゃあ、また後で……」
 がちゃり、と受話器を置く音がやけに大きく響いた。
「伯母さん……何て?」
 莉沙の問う声は、恐れを含んではいるもののしっかりした口調だった。
「絡伺兄さんが……」
 口を開いたものの、茉佐はすぐに言葉を詰まらせた。その名前だけで、莉沙にとっては大きな苦痛になることがわかっていたからだ。けれど、この先にある言葉は、もっと惨い――。
「話して、茉佐」
 けれど莉沙は、気丈な態度を崩さなかった。
「どんなにつらい言葉でも……ちゃんと、受けとめるから。……ちゃんと……」
 これまでの自分は、過去の自分を押し込めて逃げてばかりだった。過去のせいにして、貴明への想いも殺してきた。
 けれど、もし茉佐の言うとおり、貴明が自分を受け入れてくれるのならば。
 自分もそれに恥じない行動を取りたかった。それにはまず、過去から逃げずに立ち向かわなければならないと思ったのだ。
 茉佐は、静かに頷いた。
「絡伺兄さんが……亡くなった、って。……浜辺に打ち上げられた遺体が、今朝発見されたそうだよ……」


 莉沙、茉佐、貴明の三人は、車で迎えに来た伯父とともに伯父の家へ向かった。
 伯父の話では、遺体は損傷が激しかったため、死因に不可解な点がないことがわかると、すぐに火葬にされたということだった。自殺、或いは急な高波に呑まれた不幸な事故ではないかということらしかった。
「わざわざ来てくれて、ありがとうね」
 居間で三人を出迎えた伯母は、泣きはらした赤い目のまま深々と頭を下げた。
「莉沙ちゃんには改めて、謝りたいと思っていたの……。幾ら知らなかったとは言え、あなたの人生に、暗い陰を落としてしまったこと……」
「伯母さん、そんな……」
「莉沙ちゃんの様子は、定期的に茉佐ちゃんから連絡をもらってたのよ。……一時期、自傷行為をしていたことも……」
 莉沙はさっと顔を青ざめさせて、右手で左の手腕を掴んで俯いた。
 その袖の下には、まだ痛々しい傷跡が残っている。
 あの頃は――城見家に戻ったばかりの頃は、自然の摂理に背いた自分の命が汚らわしく思えてならなかったのだ。自分は生きていてはいけないのだと思い込んでいた。けれど自ら命を絶つ勇気はなくて、血を流すことで一時的に気持ちを抑えていたのだった。
 莉沙の自傷行為に気づいたのは茉佐だった。茉佐は莉沙の身体に取り縋り、泣いた。狂ったように泣き喚いた。「二度も姉さんを失うなんて、俺は絶対嫌だ!」と叫びながら。
「……今は……もう、していません。……自分より、他人を傷つける行為だと……わかったので……」
「そう……」
 伯母はエプロンのポケットから何かを取り出し、莉沙に差し出した。
「莉沙ちゃん……これに見覚えはある? ……絡伺が、最後に握っていたものなんだけど……」
 てのひらの上にあったのは、色褪せたピンク色のリボンの様だった。端のほつれが酷く、色褪せの具合からも古いものだとわかる。
「これ……わたしが気に入ってたリボンだと思います……。確か、あの時もつけていました……」
 一度、この命が断ち切られた四年前の夏。何も歪んでいなかった、眩しい過去。
 伯母は悲しそうな笑みを浮かべて、莉沙に問うた。
「これ……伯母さんが持っていてもいい?」
 莉沙はすぐに頷いた。けれど、何とも言い表せないやりきれなさに、伯母から目を反らさずにはいられなかった。


 話が終わってから、莉沙はひとりで浜辺に出て、ゆっくりと歩いていた。
 水平線に懸かる半円の夕陽は、鮮やかすぎるほどに海を照らしている。波の打ち寄せる大きな音が、他の音を遮断している。
「莉沙さん」
 けれど、その声ははっきりと莉沙の耳に届いた。
 あの時、ここで溺れた莉沙の命がすくい上げられたように。闇に溺れて藻掻いている莉沙を引き上げてくれるのは、この声なのかもしれない。
 莉沙は立ち止まって振り返る。
「きっとここにいると思うって、茉佐が言ってたから」
 そう言って微笑む貴明に、莉沙はぽつりとつぶやいた。
「……こんな解決の仕方……想像してなかった……」
 貴明は何も言わず、じっと莉沙を見つめる。
「あの人からは逃げられないと思ってた……。だけど……だけど、あの人が死んで解決するなんて……っ、そんなの……!」
 莉沙は頭を抱えてしゃがみこんだ。
 涙が出た。悲しい、悔しい、不甲斐ない、いろいろな感情が混ざり合っていた。
「知ってたよ……! ずっと絡伺兄さんがわたしを見てたこと……! でも、絡伺兄さんの想いがみるみる歪んでいってどうにもできなかったからっ……」
「莉沙さん……」
 膝を抱えてしゃがみこむ莉沙を、貴明は優しく包むように抱き締めた。
「莉沙さんは……その人が嫌いじゃなかったから、こんなに苦しんだんです……。きっと、わかってくれますよ……」
 嫌いじゃなかった。
 その言葉は、今までの絡伺への恐怖心を突き破ってすとんと胸に落ちてきた。
 そうだ。怖いと思っていたけれど、嫌いだとか恨むだとか思ったことはなかった。
 もの静かであまり感情を出さないことが多かったけれど、自分たち姉弟とはよく一緒に遊んでくれた従兄弟。
 優しいところ、物知りなところ、良いところをたくさん知っていた。
 だから、恨みきれなかった。
 どこかで元に戻ってほしいと願っていた。
 けれど……怯えて逃げることしかできなかった。
「でもっ……わたしは、何もできなかった……! 戻ってほしかったのに……、何も……っ」
 貴明は、今度は力を込めて莉沙を抱き締めた。苦しいほどに。
「莉沙さん……もう、独りで苦しまないでください。莉沙さんの苦しみは、俺が半分背負います。後悔も、哀悼も、全部。俺がずっと、傍にいます……」

 やっと、暗闇に光が射した。

 やっと、光の中へ戻ってゆける。

 無言で貴明の背中に腕をまわした莉沙の瞳から、一筋の涙がつたっていった。


 (2008.10.15 一部加筆訂正)
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