荊の花

モドル | ススム | モクジ

  act 4-1. 非力な掌  


 うす暗く何もない空間で、女性が一人、七実に背を向けて立っている。そこだけぽっかりとスポットライトが当たっているように鮮明だ。彼女はそのまま前へと歩き出す。
(待って……! 行かないで!)
 七実は手を伸ばした。
 やわらかく長い髪がなびいている。遠い記憶の彼方、その感触を憶えている。細くてふんわりとして、やさしい匂いがした。
(置いていかないで……!)
 この手が届くことは決してない。わかっているのに、求めずにはいられないのだ。
(独りにしないで!!)


 パチリと目が開いた。天井の蛍光灯がぼやけて見える。カーテンごしに感じる日光と、近くの道路を自動車が行き来している音で朝を知る。
 七実はごろりと横向きになり、膝を抱えるようにしてうずくまった。
 ときどき同じ夢を見る。あの背中までの距離は、どうしても縮まらない。七実は為す術なく座りこんでいるだけだ。
(……だいじょうぶ、独りじゃない。わたしには、一葉がいるもの。……猛史くんと、悟史くんがいるもの)
 速まった鼓動を落ち着かせようと、胸に握った拳をあてる。
(でも……わたしは何もできないから……いつか愛想を尽かされてしまうかもしれない……)
 それは漫然と七実の内にある不安。
 世間知らずなうえに何事にも自信がなく、自分の思いを伝えることすら躊躇ってしまう臆病な性格を嫌というほどわかっている。大学という新しい世界に踏み出せばそれだけで何かが変わるような気がしていたが、現実はそう甘くない。それでも、猛史と悟史に知り合えたことは幸運だった。こんな自分でも、変われるかもしれないと思わせてくれる何かが、あの二人にはあった。
(だから、いつまでもうずくまっているわけにはいかない……。怖いけど……自分の力で、立てるようになりたいから……)
 念じるようにじっとしていたら、少し鼓動が落ち着いてきた。
 午前六時すぎ、そろそろ朝食を作る時間だ。七実は時計を確認して起き上がった。
 夕食は毎日午後から来る家政婦が用意してくれるのだが、朝食と昼食は彼女の管轄外であるため、平日の朝食は七実が作っている。本当は一葉の弁当も作らねばならないのだろうが、彼はコンビニや購買で済ますから大丈夫と言ってくれるのに甘えている。
 自信のない七実にとって唯一、特技と言えるものが料理である。とびぬけて上手いわけではないけれど、だいたいの家庭料理のメニューは作れるしアレンジを加えたりもできる。だから彼女にとって、朝食を作っているときは幸福だった。――自分が、誰かに必要とされているように思えるから。
 着替えを終えて、しんと冷たいキッチンに立つ。
 ドラマなどでは、家族の団欒として親子が一緒に何かを作ったりしているシーンがあるけれど、七実にとっては縁遠いものだ。食事の時間は一葉がいてくれるから温かだ。しかし、キッチンに立っている時間に在るのは静寂のみ。七実はそれに慣れてしまっているから淋しくはないが、羨ましくはある。
(猛史くんと悟史くんのお家は……きっと、温かいキッチンなんだろうな……)
 訊いたことはないけれど、何となくそう思う。二人の持つ、親しみやすい雰囲気の漂うキッチンが容易に想像できる。
(今度……二人に何か作ってプレゼントしよう……。喜んでくれるか、わからないけど……)
 中学、高校の頃、クラスメイトの女子生徒たちが手作り菓子の交換をしていたことを思い出した。七実は遠巻きに、カラフルなプレゼントの包みを見つめていた。
(でも……すごく、楽しみ……)
 どんな菓子を作ろうか、どんなラッピングにしようか、そう考えるだけでわくわくして、気持ちが明るくなるのがわかる。
 七実はずっと自分のことに精一杯で、誰かのために何かをしようと考えたことが少なかった。だから今、その喜ばしさを感じて高揚していた。
(今日……学校の帰りに本屋さんに寄ろう……。猛史くんに、二人の好みも訊こう……嫌いなもの、あるといけないから……)
 あれこれと考えを巡らせながら朝食の準備をしていると、あっという間に時間は過ぎた。
 六時四十分。ほぼきっかりに、リビングのドアが開いて制服姿の一葉が入ってきた。
「おはよう、姉さん」
「おはよう……ちょうど、ご飯できたとこだよ」
 白菜の味噌汁と白飯、卵と豚肉の炒め物を一葉の席の前に並べる。
「ありがとう。出来たてかぁ、嬉しいな」
 一葉は表情をほころばせて席に着き、リモコンでテレビの電源を入れた。彼が贔屓にしている朝のニュース番組が映る。
 七実は自分の分の皿と椀も運んできて、席に着いた。大学の講義は昼からだが、朝食は必ず夕食もなるべく一葉と一緒に取ると決めているので、その規則は崩さない。
「今週のお休みに……何かお菓子を作ろうと思うんだけど……一葉、食べたいものある……?」
 箸を止めて、一葉は「そうだなあ」と唸る。
「姉さんの料理は美味しいから、何でもいいんだけど。……えーと、前に作ってくれたやつ、何だったかな? 誕生日かいつか……」
「去年の誕生日は、アップルパイだった……と、思うけど……」
 七実が記憶を辿ると、「そう、それ」と一葉は頷いた。
「あれ、すごく美味しかったから」
「そうかな……? ありがとう……じゃあ、アップルパイ作るね」
 一葉は目を細めて、嬉しそうに笑った。
「うん、楽しみにしてる」
 いつも心配ばかりかけているけれど、自分の料理でこんなに幸せそうな笑顔を浮かべてくれるのなら、少しは罪滅ぼしになっているのだろうか。そして、猛史と悟史も同じように微笑んでくれたら良いと思った。


 自分の非力さを知っている。
 けれど、微々たる力も、かき集めればできることがある。どんなに小さな物事でも、誰かを幸せな気持ちにすることができる。
 七実はそのことに気づいたのだった。
モドル | ススム | モクジ

「読んだよ!」の記念に是非。メッセージも送れます。

Copyright (c) 2008 Aoi Tsukishiro All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-