荊の花

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  act 3-2. 必然の遭遇  


「じゃ、お疲れ様。明日もよろしく頼むよ」
「はい、お疲れ様でした」
 一葉は、気さくに声をかけてくれた店長に軽く会釈をした。
 昨日から始めたばかりの、ファーストフード店でのアルバイト。もともと何でも器用にこなせる性質であることは自覚していたし、仕事が難しいわけでは決してなかった。が、やはり初めての経験、初めての場所だったため、緊張していたようだ。自然とため息が漏れた。
 制服を着替えるため更衣室に入ると、アルバイトが一人休憩をとっていた。
「お疲れ様でした。樫原さん」
 しっかりと名前を発音する。店長も、他の社員やアルバイトの人たちもまだ全然名前が憶えられていないが、彼だけは真っ先に憶えた。――知っていた。
「……あぁ。お疲れ様」
 一葉が声をかけると、その人はちらと視線を上げ、ぶっきらぼうに返してきた。
 凡庸な奴だというのが、一葉の樫原悟史に対する印象だった。特に目立つこともなく、ただ与えられた仕事をこなす。一葉への教育も仕事の一環としか見ていないようで、坦々とそつなく仕事内容を教えてはくれたがそれだけで、新人への気の利いた心配りや、コミュニケーションを図ろうといった気持ちは持ち合わせていないようだ。今も、雑談などをしようとも思わないらしく、すぐに手元の雑誌に視線を落とした。
 まったく張り合いがない。
 一葉は黙々と着替え終えると、もう一度悟史に挨拶をしてから更衣室を後にした。



「ただいま、姉さん」
 リビングのドアを開けると、七実はいつものようにダイニングテーブルに座って彼を待っていた。
「おかえり、一葉。……ご飯、先食べていいって書いてたけど……一応待ってたの……」
 今日はアルバイトで遅くなるだろうからと思い、夕食は先に食べてほしいという七実宛てにメモを置いておいたのだ。
「えっ! じゃあおなか空いてるだろ? 僕もすぐ食べるよ」
 一葉は着替えるのを後回しにして、制服のまま席に着いた。テーブルには小ぶりの鍋が一つ置いてある。
「あ、シチュー……さっき温め直したから……」
 そう言いながら七実は鍋の蓋を取り、二人分のシチューを皿によそった。
「ありがとう、姉さん」
 きっちりと用意を整えてから、二人揃って食べはじめる。話題を出してくるのはいつも一葉なのだが、今日は珍しく七実が口を開いた。
「一葉……、アルバイトって、どんな感じ……?」
「うーん、思ってたよりも忙しかったかな。でも楽しくできそうだよ」
「そう……」
 すぐに話は途切れ、七実は黙ってシチューを口に運ぶ。しかしまた思いついたように声を発した。
「わたしにも……できるかな」
「何言ってるんだ、姉さん!」
 一葉はバンッと机を叩き、勢いよく立ち上がっていた。七実はびくりと身体を強張らせる。手にしていたスプーンがすべり落ち、カツンと音を立てた。
「姉さんはそんなことしなくていいんだ! たくさんの人がいるんだよ? 僕にとっては何でもないけど、姉さんには向いてないよ」
「あ……ご、ごめんね、一葉……。わたし……」
 七実は今にも涙がこぼれそうな瞳で、おどおどと一葉を見る。
 ひとりでは何もできない七実。だからこそ愛おしい。外の世界を知る必要なんかない。
「姉さんはそのままでいいんだよ。何も心配することなんかないんだ。僕がいるんだから……」
 このところ、七実が変わってきていることに一葉は気づいていた。自分から話を切り出したり、願望を口にしたりするようになった。
 それは、彼女が大学に入学してから――樫原猛史、悟史の二人と知り合ってからのことだ。彼らの名が七実の口に上りはじめるまでは、七実は一葉を一番に信頼し、一葉の言う通りに行動してくれていたのに。
 七実に悪影響を及ぼすような奴など要らない。
 彼らを排除するためには、近しい関係になっておくことが望ましい。一葉は七実の話から、双子の弟・悟史がアルバイトをしていることを知り、それが良いきっかけになると踏んだのだ。
 これ以上七実が歪んでしまう前に、早く、手を打たなければならない。
 七実を慰撫いぶするように、一葉は優しい微笑みをつくる。
「もうそんな馬鹿げたことを言ったらだめだよ。七実姉さんは何もできないんだから。わかってるだろ?」
「う、ん……」


 その言葉の裏には、暗影を孕む蔦がしつこく絡みついていた。
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