フルコトブミ

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[其の一] 月さら

 月読宮つくよみのみやには、月齢を数え暦を司るみこが住む。
 その名を月夜見つくよみ
 彼は、その業の為にほとんどを与えられた部屋の中で過ごす。
 しかし、彼が外へ出ることを許される一時がある。
 それが、満月の夜。
 月夜見は、月の化身。満月の光を浴びることで、その生命を繋ぎ止めるのだ。


                 *     *     *


 その夜は、満月だった。
 めったに開かれることのない部屋のふすまが、静かに、ゆっくりと開いてゆく。
 姿を現したのは、長い漆黒の髪を後ろでひとつにまとめた齢十四くらいの少年であった。
 特徴的なのが、その瞳。視線の先に在る望月と同じ、黄金色こがねいろ
 月夜見は、月に微笑みかけていた。
 まるで、旧知の友……母親……いやむしろ、最上の愛を捧げる人へ、微笑みかけるように。
 ちょうど、その光景を見てしまった者がいた。
 天夷鳥あまのひなとりという、うつし国から黄泉よもつ国へ人間の霊魂を運ぶ業を務める女神だった。


 天夷鳥は、月夜見に恋をした。


 何て美しく、何て儚く、何て切なく微笑むのだろうと天夷鳥は思った。
 月夜見という覡については聞き及んでいる。
 天界を統べる天之常立あめのとこたちの神より暦を司ることを許された覡。――神の力の一部を得た、人間。
 嗚呼、今し方見たあの少年が、人間なものか。
 あれは、人間の持つ美しさではない。あれは、人間の持つ清らかさではない。
 天夷鳥は、羽ばたくのも忘れてただ、月に照らされた月夜見の神々しさに打たれていた。
 月夜見が襖を閉じきるその時まで、天夷鳥は微動だにしなかった。



                 *     *     *



 天夷鳥は、翌日もその翌日も、毎日月読宮へ通った。月夜見が姿を見せたのと同じ時間に。
 しかし、襖は閉め切られたまま。なかに人が居る様子も窺えない。
 天夷鳥は堪らなくなって、ついに主である国之常立くにのとこたちの神に月夜見のことを訊ねてみた。月夜見の姿を垣間見た、五日後のことだった。
「月夜見の覡を見た、と? それは貴重な体験をしたものよのう」
 白髭をたくわえた悠然たる姿の国之常立の神は、切羽詰まった様子の天夷鳥とは対照的に朗らかに笑った。
「あれが外へ姿を晒すのは、真の望月が照る一夜のみ。それしか許されておらぬのじゃ」
 なんて不自由な御方、と天夷鳥は不憫に思った。
 自分はこの翼で、毎日自由に空を翔けることができる。
 あたたかな陽射し。心地良い風。透きとおる空。美しい下界の景色。そのすべてを、あの覡は知らないのだ。
 月夜見が知る外界のものは唯一、夜の闇と孤独な望月のみ。
 哀しすぎる。
 天夷鳥はただ、月夜見の身の上を不憫に思っただけだった。
 自分と同じ世界を見せたいと願っただけだった。


                 *     *     *


 まるい月が浮かぶ夜。
 天夷鳥は月読宮に来ていた。月夜見が姿を見せたあの襖が開くのを、今か今かと待っていた。
 障子に薄く、人影が映る。
 そして、ゆっくりと――月夜見の姿が現れてくる。
 月夜見が、襖を開けきった瞬間だった。天夷鳥がさっと舞い降り、月夜見の腋を抱えて再び空へ舞い上がった。
「いけない! わたしを宮へ戻してください!」
 ばたばたと足を動かし身をよじり、月夜見は天夷鳥の腕から逃れようとする。
「どうしてですか。貴方は宮に押し込められ、満月の夜にしか外界を見ることが許されぬ、そんな生活が良いのですか」
「わたしは、天之常立の神と約したのです! このままでは、神との約を違えてしまう…! どうか、どうか……!」
 その時、天夷鳥は見た。
 黄金色に輝いていた望月が、だんだんとどす黒い緋色に染まってゆくのを。
「ああ! 天之常立の神よ、おゆるしください!」
 月夜見の悲痛な叫びが耳を貫いた。
 自然の色ではあり得ぬ、緋い月。やっと、天夷鳥は自分のしでかした事の重大さに気がついた。
 くるりと方向を変え、天夷鳥は飛んだ。無我夢中で飛んだ。
 無事月読宮へ辿り着き、月夜見の身体を下ろしてすぐ月を仰いだ。
 緋色の月はまだ、夜空に浮かんだままだった。
『愚かな者よ……』
 しわがれた、けれど威厳のある声に、天夷鳥は雷に打たれたように振り返った。
 そこには、月夜見ただ一人。しかし、続けて月夜見が口を開いた。
『神にはそれぞれの業がある。神の力の一部を持つ月夜見とて、同じ事。それをおまえは、愚かな私情で侵したのだ』
 理由を述べようにも、天之常立の神を前にして、天夷鳥は声を発することさえ赦されていなかった。
『問答無用。おまえから翼を奪い、黄泉つ国へ堕とそうぞ』
 次の瞬間、天夷鳥は翼をもぎ取られ、その痛みも引かぬうちに黄泉つ国へ放られたのだった。





 月夜見は、ただ静かに黄金色の月を見ていた。
 自分をさらおうとした女神のことは、記憶の中から抜き取られて――。
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