フルコトブミ

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[其の三] 蛇の花嫁

 今は昔。
 大呂村おおろむらという村があった。
 大呂村は、水神すいじんの加護を受けていた。まわりの村がいくら日照りに悩まされようとも、大呂村にだけは恵みの雨が降り、田圃たんぼに悠々と水が張っていた。
 水神は大呂村の北、林の中にある泉に棲むと言い伝えられている。だから、水神を祀る祠はその泉のほとりに在った。
 その祠を先祖代々護り続けてきたのが、この地の国つ神の血を引くとされる足名あしなの翁である。足名の翁には手名てなおうなという妻が居り、二人の間には久志奈比売くしなひめという娘が居た。
 久志奈比売の容姿は泉のように清らかで涼しげで、水面を踊る光にも劣らぬ目映さを備え、尽きることのない湧き水のような広くやさしい心の持ち主であった。
 そうであるので、久志奈比売への求婚は後を絶たなかったが、足名の翁はすべて丁重に断り続けていた。曰く、水神に仕える身であるからと。人に嫁ぐことは出来ぬ身であるからと。


                 *     *     *


 久志奈比売は、水神の泉で水浴びすることを日課としていた。
 東の山の稜線から太陽の光が清々しく空を射し、朝の冷気で空気がぴんと張る頃に。久志奈比売は決まって、泉のほとりに現れる。そして、祠に向かって祈るような仕草をした後、薄布の衣服を着けたまま静かに泉に浸かるのである。
 水に浸かったまま結い上げた髪を解くと、まるで水の流れの一であるかのように、漆黒の髪はするすると水面を滑って広がる。
 ぴしゃん……、久志奈比売が少し身じろぐ度に、静かに波紋が泉全体を震わせる。まるで久志奈比売に応えるように。
 その様子を、林の木の陰からじっと窺う青年が居た。
 大呂村のおさの息子で、名を斐威ひいと言った。斐威は、久志奈比売に懸想していた。
 幾度結婚を望んだか知れない。けれど、返事はいつも同じ。すぐ其処に居るのに、手の届かない存在。
 斐威は、泉の中でゆっくりと踊るように身をたゆたわせている久志奈比売を、ただ見つめていた。この瞬間だけは、久志奈比売を独占しているように感じられた。


                 *     *     *


 その年の夏。
 本来ならば田圃の稲が青々とした葉を伸ばしはじめる時期だと言うのに、めっきり雨が降らない為に、その姿はひょろひょろと弱々しい。
 村人は首を傾げた。それもそのはず、大呂村で田圃の水が地面すれすれになるなんてことは、今まで無かったのである。
 長はおさ早速、足名の翁のもとを訪れた。足名の翁もまた、異変に気づいていた。しかし、水神に伺いを立てようにも、返答を得られないのだと長に告げた。
「返答が得られないとは……? この大呂村は、水神様に護られているのではなかったのか。何故、今年に限ってその恵みが受けられぬのか!?」
「長殿」
 声を荒げる長の耳を打ったのは、静かな響きを湛えた久志奈比売の声だった。
「その原因は、わらわが知っております」
「おお、久志奈比売。何が原因なのです」
 長は眼を輝かせて久志奈比売を見た。
 久志奈比売はそっと足名の翁へ眼を遣り、哀しげに伏せる。
「……父上。時が……満ちたようです」
「そうであったか……。いつかは来ると思うておったが……」
 足名の翁は少し声を詰まらせた。久志奈比売は視線を長に戻す。
「雨の恵みを受けられぬのは、水神様の加護が無くなったからではありません。千年に一度、水神様の力が弱まるのです。再び力を得る為に、水神様は生贄を欲されているのです」
「生贄……とは」
 長はごくりと生唾を呑んだ。
「……花嫁です。それは、祠をお護りしてきた我が家の娘である、妾の務めなのです」
 久志奈比売の告げた事柄は、すぐ村中に知れわたった。不条理を嘆く声もあったが、村人は皆、何も言わなかった。
 そんな村人たちの態度に腹を立てたのが、斐威である。
 彼は、久志奈比売が得体の知れない水神の生贄になるなど、許せなかった。あの美しい娘を我が妻にすることは叶わなくとも、人として、この村に留まらせておきたいと思った。
 ――儀式は、二日後だった。



 儀式当日。
 空はからりと、気持ち良いほどに晴れわたっていた。
 久志奈比売は夜明け前から今までずっと、泉の祠の前に組み立てられた祭壇の上に座っていた。いつも結っている髪は下ろし、深い青色の着物を身に纏い、眼を閉じてその時を待っていた。
 ふいにその静寂を破ったのは、がさがさっという草木を掻き分ける音だった。
「久志奈比売!」
 続いて響いた声に、久志奈比売は眼を開いて後ろを振り返った。そこには、武装をした斐威の姿があった。
「何故、そなたが生贄になどならなくてはならぬ! 久志奈比売、私はそなたの為に戦いましょうぞ!」
「斐威殿! 何をなさるのです、おやめ下さい!」
 斐威は、取り乱し祭壇の上で立ち上がった久志奈比売の細い手首を掴んで言った。
「久志奈比売、さあ。村へ戻りましょう」
「斐威殿!」
 久志奈比売は、斐威の手を振りほどこうともがく。着物の裾が捲くれ、白い肌が露になる。
 その腕を見た斐威は、我が眼を疑った。
 久志奈比売の腕には、びっしりと、白銀色しろがねいろに光る鱗が生えていたからである。
「ひ……っ」
 斐威は恐れおののき、勢い良く久志奈比売の手首を振り放す。
 祭壇の上へ久志奈比売の身体が倒れたその時、泉の奥底から、飛沫を散らして一匹の大蛇おろちが天をめがけて飛び出した。ごつごつとした鱗はすべて深い青色で、眼は妖しく紅に輝いている。
 頭をもたげ、ぐっと下方を見下ろした大蛇は、ひゅーひゅーと風を切るような音を発する。その間から、低くかすれた声が耳に届いた。
『そなたが、久志奈比売か』
 久志奈比売は慌てて座り直し、頭を垂れた。
「はい。久志奈比売とは妾のことでございます。大呂の水中主みなかぬし様とお見受け致します」
如何いかにも。そなたは我が妻。腕の鱗はその証じゃ』
「有り難き幸せに存じます」
 久志奈比売が再び頭を垂れた後、また大蛇の声が降ってきた。
『久志奈比売よ。この神聖なる場に踏み入った、人間がいるようだが』
 斐威はすっかり腰を抜かしてしまい、立つことも、這うことすら出来ず、ただ恐怖に打ち震えながら大蛇の視線を受けていた。
 泉の中からするすると大蛇の尾が出てきて、久志奈比売をやさしく巻き取る。その身を委ねている久志奈比売の眼が、冷ややかな氷の色に染まってゆく。
「……そのようでございます。人間の分際で、水神の妻たる妾に触れた不届き者」
如何いかが致そう』
「主様のお気の召すままに……」
 斐威の口から、喘ぎ声のような、けれど音にならぬ悲鳴が漏れた。腰を抜かしたまま、本能でずるずると尻を引きずったまま後ずさる。

 久志奈比売は、人間から神になった。

 それだけはわかった。
「わあぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 斐威は畏怖の掻き立てるままに叫び、その勢いで立ち上がり、一心不乱に村へ向かって駆け出した。後ろは振り返らなかった。ひたすらに、走った。
 そんな斐威の姿を見て、大蛇とその花嫁は顔を見合わせると、そのまま静かに泉の底へ消えてゆく。
 大蛇の頭が泉に隠れると、見る見るうちに空を黒い雨雲が覆い、大粒の雨を降らせはじめた。


                 *     *     *


 大呂村の泉には、水を司る大蛇が棲む。
 その姿は正に水の化身、深い青色の鱗が覆う。
 大蛇の花嫁、久志奈比売。人間から神の妻となった女人。
 人間の姿ともう一つ、白銀色の蛇の姿をとり、片時も離れず大蛇の傍に寄り添っているそうな。


 こうして大呂村は、今もなお、豊かな雨に恵まれ続けているのである――。
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