スノウ・シンデレラ

NEXT→ | TOP

一、貴方の、太陽のような笑顔が好きでした。

 何気なく触れ合いそうになった手を、わたしはそうっと避けるように引っ込めた。彼はきっと気づいていないだろう。
 彼の名は、志渡徹史しどてつし。同じ喫茶店で働くバイト仲間だ。学部は違うけれど、同じ大学の学生でもある。そして、このバイトを始めた時期も同じくらいで、ちょうど二年半くらい前からになる。
 背は一七〇センチ代後半で、がっちり体型。髪は硬そうで、色は地毛のナチュラルな黒。肌はどちらかといえば地黒。
 誰にでも、自然体のやさしい笑顔を振りまくひとだ。
 関東の出身で、正直言うとはじめは標準語に違和感を覚えていたのだが、今は何も気にならなくなった。
 リーダー性もあり、しょっちゅうバイト仲間での飲み会やらカラオケ大会やらボウリング大会やら、自ら企画しては実施している。
 はじめは……ただのバイト仲間だったのだ。
 けれどわたしは、いつしか彼を瞳で追っていた。彼の仕草をいちいち、見つめていた。
 本当に、いつの間にか。


 惹かれて、いた。


 理由など、深く考えたことはないけれど。たぶん、彼の傍は心地よいのだ。いつでも、彼のあたたかい瞳がわたしを包み、優しい手を差し伸べてくれる。それが当たり前のように感じさせてくれる、紳士的な雰囲気。それに惹かれたのではないかと思う。
 けれどわたしは、惹かれてはいけなかったのだ。
 避けた左手を、そっと右手で握りこむ。握りこんだその下の、薬指には華奢なシルバーリングが在る。恋人のかんからもらったもの。
 そう――わたしには、恋人が居るから。
 完への気持ちが冷め切っているとか、嫌いになったわけではない。完への気持ちは、変わらず「好き」だ。
 けれど、どうしようもなく惹かれてしまうのだ。志渡徹史の笑顔に、言動に……すべてに。
「……おしみさん?」
「あ……っ」
 急に名前を呼ばれて、思わずびくりと身体を震わせた。
 彼の声はちょうど良いほどに低く、よく通る。心地よい快感をわたしにもたらす。
「ごめん、ちょっと通らせて?」
 彼は、食器洗浄機から取り出した什器類を両手に持っていた。それをこれから、所定の位置へ戻しに行くのだろう。
「手伝うで? こっちのグラス、戻してくる」
 そう言って、わたしは彼が左手に持っている二つのグラスを引き取る。せっかく先程は避けた手が、今度はまともにこつん、とぶつかる。
「あぁ、ありがとう」
 目尻に笑いジワが寄って、にかっと笑う。
 間近で向けられたその笑顔に、わたしは高鳴る鼓動が聞こえないようにと祈りながら平静を装うのがやっとだった。


 太陽のような笑顔。


 陳腐な表現だとは思うが、彼の笑顔にはその言葉がぴったり合う。笑顔の明るさの比喩だけではなく、誰にでも平等に降り注ぐことさえも、太陽のごとくであるからだ。
 いくらきらきらと目映いほどに輝く笑顔を向けてくれても、それはわたしが特別だからではないのだ。わかっていても、やはり心が幸福で満たされて勘違いしそうになってしまう。
 もしかしたら……彼も同じ気持ちでいてくれているのではないか、と。
 それが万が一にも在り得ないことを知っていても、なお。愚かしい思いは未だ消えずに、わたしの胸の片隅に巣くっている。
「こんにちはー」
 明るい挨拶とともに店へ入ってきたのは、同じくアルバイトの野末理加のずえりか。理加は、わたしの高校時代の部活の後輩でもあり、大学の後輩でもある。たまたまとは言え、学部まで一緒なのだから、何かの縁なのだろう。その上アルバイトまで一緒なのだが、わたしが働いているのを知っていて理加が面接を受けに来たのだから、偶然で起こったわけではない。高校時代から、理加は何故かわたしに懐いてくれているのだ。
季世子きよこさん、お疲れ様ですー」
「理加、今日のシフト入ってたっけ?」
「無いですよー。今日は、次のシフト表取りに来たんです」
 そこで一度言葉を切り、理加はちょっとはにかむように微笑んだ。真っ直ぐに伸ばした、綺麗な髪をなびかせて。
「あと、志渡さんが上がるのに合わせて……」
 そう、つい最近のことだが、彼と理加がつきあいはじめたのだ。
 理加の気持ちは本人から相談を受けたりして知っていたのでそれほど驚きはなかったが、やはりショックを受けなかったわけではない。
 けれど、それで良かったのだと思う。今はまだ完全にふっきれずにいるけれど、自分にとっても身近な理加の恋人だという事実を目の前にしていれば、次第に、気の迷いだったと思えるようになるだろう。
「おぅ、理加。来たのか」
「はい。あ、わたし休憩室にいますから!」
 頬を赤らめて、理加は足早に休憩室の方へ去ってゆく。
 自分の不条理な気持ちに気づいてから、わたしの方から彼に話しかけるのを極力控えていたのだが、この時ばかりはつい話を振ってしまった。
「……もう、つきあいはじめて一ヶ月じゃなかった? まだ理加、志渡くんに敬語使ってるん?」
 彼は苦笑に近い照れ笑いを浮かべて言った。
「何か敬語じゃないと落ち着かないって言われたよ」
 理加は愛されてるんだと思った。やっぱり、胸が痛かった。


                 *     *     *


 クリスマスを間近に控えた日曜日。今日は、お昼頃から雪が降りはじめた。午後四時すぎの今は、歩道にうっすらと積もるくらいにまでなっている。
 わたしは完の車の助手席にいて、駅前まで送ってもらったところだった。
「ありがとう、完。わざわざ送ってくれて」
「別についでやし、えぇよ。俺とのデートを中断してまで、理加ちゃんを選んだのはちょっと恨んでるけどな」
 完は冗談めかして笑いながらそう言った。
 もともと今日は完と出かける予定だったのだが、朝に理加からメールが入り、会う時間が欲しいと言われたのだ。だいたい、理加がわたしに会いたいというのは相談事がある時だと知っているので、断れなかったのだ。
「今度、埋め合わせするから」
「いや、今してもらうわ」
 そう言って、完はぐいとわたしの身体を引き寄せて軽いキスをする。ドキドキはしない。これくらいのキスは日常茶飯事になってしまっていることを、改めて感じてしまう。
「じゃあな」
「……うん、また明日」
 わたしは、完に撫でられてくしゃっとなった髪をささっと手櫛で直してから車を出た。パパッ、とクラクションを鳴らし、完の車はゆっくりと走り去って行った。その姿を見送ってから、わたしは理加と待ち合わせる約束をした駅の改札口へ向かった。




「季世子さん……遠距離恋愛って、どう思います?」
 二人掛けのテーブルで向かい側に座った理加は、ホットココアのカップを両手で包むように持ちながらわたしに問いかけてきた。
 ここは、わたしが贔屓にしている喫茶店。カントリー調の内装で、木製のテーブルやチェアが気持ちを落ち着かせてくれる。小さな店なので、静かにくつろげるというのも利点だ。そもそも喫茶店の雰囲気が好きで、わたしはアルバイトを決めたのだった。
 遠距離恋愛。
 その言葉で、やはり理加が恋愛に悩んでいることが知れた。
 彼の実家は関東だ。就職先も向こうだと聞いている。遠距離恋愛になってしまうのは必然だ。
「そうやねぇ……。難しいとは思うけど、何とかなると思うよ? まだ付き合いはじめたばっかりやん?」
 理加は少し俯き、ココアを一口啜ってから口を開いた。
「……わたし、全然考えてへんかったんです」
 わたしは、カフェラテのカップを持ち上げようとした手を止めて、理加を見つめた。
「志渡さんが……実家に帰っちゃうとか、遠距離恋愛になっちゃうとか……全然、考えてなくて……。志渡さんが傍に居ること、当たり前やと思ってたんです……」
 理加にとってはそうかもしれないと、わたしは思った。
 三回生の冬頃から就職活動を始めたら、自ずと自分の将来について、社会人になることについて自覚が現れてくるが、理加はまだ二回生なのだ。やっと慣れはじめた大学生活が、楽しくて仕方がない頃だろう。彼が、新幹線で数時間もかかる所へ行ってしまうなんて……思ってもいなかったのだ。
「遠距離になる、自信がないん?」
「……ないです。今も……どれくらい好かれてるんやろうとか、考えるだけで苦しくて……」
「何言ってんの! 大丈夫、理加は充分好かれてるって」
 わたしは、本当にそう感じるのでそのままを言ったのだが、理加の表情は晴れなかった。
「……そうじゃないんです……。だって、志渡さんはきっと季世子さんがタイプなんです」
「えっ……?」
 思わず、声が跳ね上がった。わたしは、高鳴る鼓動を悟られないよう、平静を装う。幸い、理加は何も気づいていないようだった。
「わたし……志渡さんのこと見てたから、わかるんです。バイト中も……何処か遊びに行った時も……ふとした瞬間に、志渡さん、季世子さんを見てるんです」
「気のせい……じゃない? ほら、志渡くん、いつも皆に気配りしてくれるから」
「それだけじゃないんですっ!」
 理加はぐっと顔を上げて、その視線でわたしを真っ直ぐに射抜いた。涙を湛えた悲しみの、しかしとても強い視線で。
「志渡さん、わたしと季世子さんの雰囲気が似てるって、言ってました。それは高校の頃から皆によく言われてたし、その時は誇らしく思ってました。わたし、季世子さんに憧れてたから。でも、志渡さんには、言ってほしくなかった……」
 理加の、めいっぱい見開いた瞳から、ぽろりと一粒涙が頬を伝った。
「志渡さん、わたしに敬語をやめるように言った時、こう言ったんです。『俺、関西弁好きだからさ。忍さんみたいな』って! ……志渡さんは比べてるんです、わたしと季世子さんのこと……」


                 *     *     *


「はぁ……」
 わたしはコーヒーカップを磨きながら、ここ数日つきっぱなしのため息をまたついた。
 あの日、理加は何とか落ち着いた帰り際、わたしに当たってしまったことを詫び、「わたしが言ったこと、あんまり気にしんといてください」と言っていたが、気にせずにはいられなかった。
 理加の言っていることを、何も真に受けているわけではない。きっと、理加の被害妄想もあるだろうし。
 けれど、もし……。それが真実であったら……。
 わたしはふるふると頭を横に振った。そんな、非現実的なことは考えてはいけない。
「忍ちゃーん、今日六時上がりやっけ?」
 社員の湯川さんが、キッチン周りを拭きながら訊ねてきた。彼女はとても綺麗好きで、少しの暇があればどこかしらを掃除している。
「はい、そうですけど……」
「今日暇やし、交代の人来たら上がってえぇよー」
 今日は十二月二十四日、クリスマス・イヴ。お昼前後はそれなりに客足もあったのだが、陽が落ちてくるとほとんどの客は帰ってしまった。今は、五十代くらいの男性が一人、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいるだけだ。
「じゃあ、そうさせてもらいます」
「せっかくのイヴに入ってもらって、申し訳ないしなぁ。彼氏との約束とか、あったんちゃう?」
「彼氏とは、明日に逢う約束なんで、今日は特に……。向こうも今日はバイトで……」
 話好きな湯川さんは特に恋愛話に目が無く、アルバイトのほぼ全員の恋人の有無は把握している。それを知っておくとシフトが組みやすいというのが、彼女の持論らしい。
「そうなん? あ、つきあい長いって言ってたもんなぁ。落ち着いてるんやねぇ」
 わたしがその問いかけに笑って応えていると、ドアベルとともに「こんにちは」という声が聞こえた。
「あれっ、志渡くん? 今日のシフト、田村くんじゃなかった?」
 湯川さんが素っ頓狂な声をあげる。入ってきたのは、喫茶店の制服を来た彼だった。
「代わったんですよ。急に行けなくなったとか言って……」
「あ、そう。じゃあ忍ちゃん、上がってー」
 わたしは返事を返し、休憩室へ入った。そして鞄の中から手帳を取り出し、シフトの変更がないか確かめる。
 そうしているうちに、彼もまた荷物を置くために休憩室に入ってきた。
「忍さん、お疲れ様」
「お疲れ様、志渡くん。……今日、代わって良かったん?」
 わたしは言外に、「理加と逢うんじゃなかったん?」ということを匂わせていた。理加と会ったあの日、クリスマス・イブは一緒に過ごす予定だと聞いていたのだ。
「え……あぁ……予定、なくなったから……」
「え……?」
 わたしは一瞬息を飲んだ。
 志渡くんは気まずそうに目を反らす。いつも相手の瞳を見て話す彼にとって、かなり珍しいことだった。
「どういうこと? 喧嘩でもしたん?」
「いや……。……別れたんだ」
 今度こそ、わたしは絶句した。あの日理加は……長続きできるように頑張ると言っていたのに。目の縁を赤く染めながらも、穏やかに微笑んで。
「何で……? そんな、急に……」
「俺が悪いんだ。全部……」
 彼は、反らしていた瞳を真っ直ぐわたしに向けて、そう言い切った。淀みない口調だった。
「でも、理加は……!」
「忍さん」
 ピシャリ、と水をかけられたかのようだった。その声はあまりにも、いつも彼がわたしを呼ぶ時の声とは違っていた。太陽のあたたかさではなく、残酷さを感じた。
 熱い。――あまりにも、熱い。
「忍さんと、話をしたい。……今日、時間取れない?」
 その響きには、有無を言わさぬ何かが潜んでいた。わたしはすっかり、その雰囲気に呑まれてしまっている。こくりと頷くと、彼は鞄の外ポケットから名刺くらいの大きさのカードを取り出し、わたしに差し出した。
「ここで待ってて。友達がバイトしてるから、俺の名前を言ったら待たせてもらえるし。バイト終わったら、すぐ行く」
 わたしがそのカードを受け取ると、彼は安心したように表情を緩めた。そして小さくごめん、と呟き、休憩室を出て行った。
 わたしはほとんど放心状態だったが、ぼんやりとした思考のまま、渡されたカードに目を落とした。
 一見するとバーのような、黒が基調のシックな店内の写真が背景に使われていて、白抜き文字で店名と住所、電話番号が載っていた。


 Cafe & Bar profondeur d'amour


 店名は、わたしには何語かもわからなかったが、英語でないことだけはわかった。住所は、ここから歩いて十分もかからないところだった。
 わたしは、ゆっくりと立ち上がる。かるく眩暈がして、わたしはこめかみを押さえて少しの間目を閉じた。
NEXT→ | TOP
Copyright (c) 2006 Aoi Himesaka All rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-