スノウ・シンデレラ

←BACK | NEXT→ | TOP

二、貴女の、月のような横顔を見つめていました。

 俺は、走ってきて切れた息を立ち止まって軽く整えてから、profondeur d'amour プロフォンドゥール ドゥアムールのドアを押した。
 カランカラン、と低めの落ち着いたドアベルの音が響く。
「いらっしゃいませ……って、徹史か。待ってるぞ、彼女」
 出迎えてくれたのは案の定、大学の友人である塚原大輝つかはらだいきだった。大輝は同じ高校出身で、彼の叔父のもとに居候している。その叔父が経営しているのが、profondeur d'amourなのだ。だから大輝は、家賃や食費の代わりにこの店でアルバイトをしている。
「一番奥のテーブル席だよ」
「サンキュー」
 大輝の肩をぽんと叩き、俺は彼女の――忍さんの待つテーブルへと足を向けた。大輝は彼女と勘違いしているようだったが、訂正するのも面倒なのでやめておいた。
 床と天井は、光沢のある漆黒。壁はクリーム色で、ぼんやりとしたやわらかい照明が店内を薄明るく照らしている。いつもはもう少し賑わっているのだが、今日は二組のカップルがカウンター席にいるだけだ。
 そんな中で彼女は、横を向いてぼうっと壁に貼られたメニューか何かのポスターを眺めていた。その横顔が綺麗なので、俺は声をかけるのが惜しくて、少しの間立ち尽くして彼女の横顔を見つめた。
 彼女はすっきりと整った顔立ちをしている。肌の色が白く、輪郭は卵型、瞳は切れ長っぽく鼻筋もすうっと通っている。
 横を向いていると一番印象的なのは睫毛だ。ありがちな、作り物のようにぎゅっと上を向いているのではなく、そっと伏せぎみで目元に影を落としているのが何とも言えない風情なのだ。淡い照明しかないこの店内でもその奥の黒目はきらきらとしていて、彼女の純粋さが滲み出ているようだった。


 それはまるで、清浄な光を振り撒く月のよう。


 ひとしきり彼女を眺めて満足した俺は、やっと声をかける気になった。
「忍さん」
 俺の声に反応してはっと顔をこちらに向けた彼女は、微妙にぎこちない笑みのようなものを浮かべた。それはそうだろう、俺が強引に話があると待たせていたのだから。しかも、彼女の後輩であり友人の理加と別れたという話の直後にだ。
「ごめんな、待たせて」
「ううん……」
 華奢な鉄製の黒い椅子を引いて、俺は彼女の向かい側に座った。
 BGMにゆったりとした、少しもの悲しい調べのクラシック音楽が流れている。ピアノの旋律だろうか。音量を抑えてあるのがまた、心憎い演出だと思う。
 彼女の前には、空になった真っ白なカップが置かれていた。おそらく、大輝がサービスに飲み物を出してくれていたのだろう。
「……話、って……?」
 できるだけ感情を抑えたような声で、彼女は問うてきた。椅子と同じ材質の薄っぺらいテーブルの端に軽く重ねて置かれた彼女の小さな手。陶器と見紛うほどに白い。
「……理加のこと。……忍さんには、聞いておいてほしくて……」
 これを話してしまったら、俺は後戻りできなくなる。けれど、それでいいと思えた。こうして彼女を目の前にしてしまえば、俺の思考は自ずと傾いてしまう。忍さんの方へと。
「何があったん……? わたし、ほんの数日前に理加に会って、話したんよ。その時は、頑張るって言ってたのに……」
「うん、理加はそう思ってくれてたと思う。原因は、全部俺なんだ」
 俺はより一層、忍さんを視線で繋ぎとめようとするかのように、じっと見つめて言った。
「俺は……理加を、忍さんの身代わりにしてたんだ」
 彼女の表情がくしゃりと崩れる。今にも泣き出しそうに……。けれど、俺はもう歯車を回しはじめてしまったのだ。彼女が悲しむだろうことも予想できたけれど、それよりも、俺は自分の気持ちを優先してしまったのだ。
 ――後悔はしていない。けれど、やはり胸は痛んだ。
「俺は……本当は……、ずっと、忍さんを見てたんだ……」
 自分が目立ちたがりなのは自覚しているから、そんな俺を何も言わず傍で微笑んで見つめてくれるような、静かで芯の強い女性が昔からタイプだった。彼女はそんな俺好みの性格を凝固させて形にしたような容姿の持ち主だと感じたし、日を重ね彼女の性格を知ってゆくうちに、それはますます確信に変わっていった。彼女こそ理想の女性だと思った。
 けれど行動に移すことができなかったのは、彼女の左薬指に存在するシルバーリングのせいだった。湯川さんが根掘り葉掘り楽しそうに皆に恋愛話を振るので、そのおかげで俺も彼女の恋愛事情を掴んでいた。
 恋人の名前は完と言って、俺と同じ歳。彼女とは高校の頃からの付き合いで、三年以上交際を続けている。そんな相手に太刀打ちしようとは思わなかった。下手にこの想いが露見してしまうよりも、アルバイトの同僚という安全な位置から彼女を見つめている方が俺にとっては幸福だと思ったのだ。
 けれど状況は、理加の登場で一転する。
 理加は、本人も言うとおり、彼女に顔立ちや雰囲気が似ていた。だから理加から告白された時、俺は断れなかった。自分を想ってくれている、彼女に似た人を愛せたら良いのではないかと思ってしまったのだ。
 二人の決定的な違いは微笑で、暗闇に冴える月光のように静かに微笑む彼女とは違い、理加は春に一斉に開く花のように華やかに笑った。それが嫌いだったわけではなく、理加は理加で、好いてはいたのだけれど。
 けれど理加は、俺が彼女を見つめていることを見破っていたのだ。それを責められて、俺は言い返す術を持たなかった。それはすべて真実だったから――。
 返事に窮した俺に向かって理加が叫んだ一言が、今も耳を離れない。


 「季世子さんの身代わりでも良いねん! わたしは志渡さんの傍に居たいの……!」


 その瞬間に、俺はやっと自分の罪を自覚したのだ。
 俺の心はずっと、彼女にしかなかったことを。理加は理加で好いていると思っていたけれど、それは彼女の面影を宿しているからでしかなかったことを。
 目の前の彼女は、テーブルに置かれた両の手をきゅっときつく握りしめた。それが小刻みに震えていることが、テーブルを伝ってくる微かな振動によって知れる。少し俯いてしまって表情は読み取れないが、口元は厳しく引き締められているようだ。
 想いを伝えてどうにかなると考えていたわけではない。彼女に恋人がいることは百も承知の事実である。けれど俺はこの時、到底叶うはずもない一縷の望みにかけていた。
 彼女は少なからず、俺に好意を寄せてくれているのではないか。俺はそう感じていたのである。
 もちろん気のせい、自意識過剰である可能性の方がはるかに高い。けれど俺は、その少ない可能性を捨て切れなかった。
 何故なら、彼女の視線が俺を捕らえた時、その瞳の奥に抑え込まれた熱情を見ているような感覚を覚えることが時折あったからだ。不安定に揺れる瞳は、揺らぐ紅蓮の炎に見えた。幾度彼女に手を伸ばしたい――抱きとめて、その炎の正体を暴きたいと願ったか知れない。それが叶うことはないとわかっていたけれど。
「……志渡くん……」
 彼女の、震えを抑えた声が俺の名前を呼ぶ。彼女の瞳が、ゆっくりと陰の中から姿を現す。――くらい炎を宿す瞳が。
「わ……わたしは……っ」
 突風に煽られた炎は消えることなく、より一層勢いを増して燃えさかる。彼女の身体の震えも、先程よりひどくなっている。
「忍さん」
 俺は、きつく握り締めて色を失いかけている彼女の両手を上から包み込むように握った。それは見た目と同様にほとんど熱を持っておらず、ひやりと俺のてのひらを刺激した。
「あ、あかんのっ……!」
 忍さんは俺の触れた手を振り払うように引っ込めようとした。その瞬間、空になっていたティーカップにあたり、それが床に落ちてパリンッと砕けた。
 忍さんの顔からは血の気が引いていた。普段からかなりの色白肌だが、白を通り越して青白く、照明の光を受けてもそれがはっきりわかるほどだった。
 カップの割れた音を聞きつけて、大輝がカウンターから慌てて出てきた。カウンター席にいた客は既にいないようだった。
「大丈夫ですか? すぐ片付けますんで」
「あ……す、すみません……!」
 彼女はしゃがんで、散らばった細かな破片をつまもうとした。
「忍さん、触ったら怪我するから……!」
 俺が声をかけると、彼女は明らかにビクリと身体を硬直させた。そして、つまみかけていた陶器の破片を取り落としてしまった。
「大丈夫?」
 しゃがみこんだままの彼女の傍に寄ってみると、破片を取り落とした時に指先を切ってしまったらしく、ぷっくりとした赤い滴がすーっと人差し指の上を滑っていた。それはちょうど白いカップの残骸の上に落ち、血の華を描いた。
「大輝、悪いけど絆創膏あるか?」
 俺はちょうど箒と塵取りを持って戻ってきた大輝に問う。カウンターの一番左の引き出しという答えを得、忍さんを軽く支えるようにしてそこまで誘導した。
 引き出しを開けると、手前のわかりやすいところに絆創膏の箱がまるまる入れてあった。そこから小さいサイズのものを一枚もらった。ポケットティッシュも入っていたので一枚取り出し、軽く血を拭き取ってから絆創膏を貼った。忍さんは静かに、その動作を見つめていた。
「はい、これで大丈夫……」
 顔を上げて彼女の顔を見る。
 ぎょっとした。
 彼女の両の瞳から、ぽろぽろと涙が溢れていたからである。
「忍さん! ご、ごめん、俺……」
「ずるいよ……志渡くん……」
 彼女は今俺が絆創膏を貼った方の手の指で涙をぬぐう。けれどまた、新たな滴が盛り上がってくる。
「ずるい……。これ以上優しくされたら……わたし……」
 ぎゅ、と彼女は俺のニットの裾をつかみ、俯いて静かに嗚咽した。俺がそっと背に手を回すと、それに触発されたようにまた嗚咽を繰り返す。
 彼女の背を優しく撫でながら、俺は途切れてしまった彼女の台詞の続きのことを考えていた。
←BACK | NEXT→ | TOP
Copyright (c) 2006 Aoi Himesaka All rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-