― 関西弁シリーズ ―

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  幕間 〜音楽室〜  


 その日は、三年生を交えた最後の部活動だった。
 文化系の部活に所属する三年生は、秋まで活動しているところが多い。合唱部では、恒例行事になっている地域の文化祭への参加を終えた翌日に、引退となる。
「あれ、野分のわき? 何か忘れ物か?」
 練習が終わってしばらく経ってから音楽室へ戻ると、その人はまだそこにいた。
 蓋の開いたピアノの前に。
 わたしが知っている限り、その人の所定位置はそこだった。合唱部のピアノ担当。今期からはわたしが受け継ぐことになる役職。
「いえ」
 わたしは一度言葉を切り、その人をきっと見据える。
 その人の、柔和な笑顔を。
「先輩に、どうしても言っときたいことがあるので」
「わかってる。霜子のことやろ?」
 この人は聡い。けれどその聡明さを笑顔で塗り込めている。そういうところは、ハッキリ言うとあまり好きじゃない。
「はい。……本気なんですよね?」
「嫌やなぁ、そんな怖い顔して。俺が本気じゃないように見える?」
「……わからへんから聞いてるんです。先輩は、本心を見せへん人でしょう?」
 自分でも、気持ちが切羽詰っているのがわかる。どうしてあの子の――霜子のことになると、わたしはこんなにも直向ひたむきになれるのだろう。
「本心を見せへん人……ね。ま、間違ってはないな」
 先輩が浮かべていた笑顔からやわらかさが消え、薄く影が差す。
「やけどな、あいつの……霜子の前でやったら、偽りない自分を見せられるような……そんな気がするねん。それじゃ、納得できひんか?」
「…………」
 先輩の気持ちはわかった。わたしも、同じような想いを霜子に抱いていると自覚しているから。
 わたしはあの子が幸せでいるのならば、何も言うことはない。
「……わかりました。先輩を信じます」
「どうも。……前から思ってたけど、ホンマに野分はあいつの保護者みたいやな」
 先輩はまた、もとどおりの邪気のない笑顔に戻る。わたしも、心の靄を振り切って笑みを浮かべた。
「望むところです。わたしは、あの子が心から笑っていれば、それでいいんです」
 ぽろん。
 いつのまにか先輩は、鍵盤に指を乗せていた。
「じゃ、和解の印に一曲弾いたるわ。何がいい?」
「和解って……、別に喧嘩を売ったわけじゃないんですけど」
「でもお前、俺のことあんまり良くは思ってへんかったやろ?」
 図星を指された。先輩たちには平等に接していたつもりだったのだが、この人には気づく何かがあったのだろうか。……やっぱり癪だ。
「今もですよ。……でも、餞別代わりに歌ってあげます。曲は『翼をください』をお願いします」
 先輩のことはあまり好きじゃない。だけど、先輩のピアノは嫌いじゃない。
 いくら隠そうとしたって、演奏には気持ちが現れるものだから。
「了解」
 先輩もおそらく知っているはずだ。
 『翼をください』
 この曲が、霜子の一番のお気に入りであることを。


 今、わたしの願い事が叶うならば――

 
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