― 関西弁シリーズ ―

モドル | ススム | モクジ

  願い星  


 それを初めてつけたときの感触は、ひんやりとしていた。
 霜子は緊張した手つきでそれをそっとつまんでみる。胸元をくすぐる華奢な銀色のチェーン。きらきらと光を反射して光る、青と白、二つのティアードロップ。おほしさまのかけらみたい、と思う。
「うん、よう似合てる」
 そう言って、彼はいつもの癖で霜子の頭を撫でまわす。
 彼がとても嬉しそうだったから、霜子も嬉しかった。



「じゃあなー貴紀!」
「また明日!」
  二学期の終業式を終えた、十二月二十二日。
 式とホームルームあわせて昼前に終了し、昼過ぎから夕方まではみっちり部活動。貴紀の所属する剣道部は大所帯で、県下で優秀な成績をおさめる先輩もいて厳しいことで有名だ。お陰で毎日へとへとである。
 自宅の最寄り駅で友達と別れると、貴紀は駅の構内にあるコンビニへ向かった。最寄りとはいえ、家まではここから自転車で約十五分。腹ごしらえに何かを買うのは、ほとんど日課となっている。
 豚まんと温かいレモンティーの500mlペットボトルを買い、ほくほく気分でコンビニを出る。すると、改札口の近くに見知った顔を見つけた。
 香村霜子かむらそうこ
 同じ高校の先輩であり姉の親友でもあるその人は、もう一つおまけに貴紀が想いを寄せる人でもある。
 そもそも初対面から、彼女の我が道を行く天然マイペースっぷりは気になっていた。むしろ気に入っていた。まさか恋愛感情に発展してしまうとは思いもよらなかったけれど……。現在、ひそかに片想い進行中である。
 この気持ちを知っているのは、クラスメイトの森啓太ひとり。啓太は何でも直球勝負、がモットー。姉の親友なんだと告げると、啓太らしく「じゃあ姉さんに相談したら早いんちゃうか?」などと言われたが、そんなこと恐ろしくでできやしない。
 桃にとっては、とにかく霜子が穏やかに過ごし、無邪気に笑ってくれることが最重要。もし貴紀の気持ちが知れてしまったら、おそらくその平穏は崩れるだろう。地雷とわかっている場所に踏み込む、そんな危険なリスクは犯したくないというのが主な理由。
 それに貴紀は今のところ、すぐに恋人になりたいとか、展開を急ごうとする気はまったくないのである。もしかすると桃とよく似た感情なのかもしれない、とも思う。幸せのなかにいる霜子を傍で見ていられれば、それだけで。
 貴紀は、霜子に声をかけようと足を踏み出す。が、それは出来なかった。
「霜子」
「あ……直行なおゆきさん」
 霜子に声をかけたのは貴紀の知らない男だった。
 穏やかな笑顔、線の細い体型、男性にしては少し長めの髪。芸術家っぽいイメージだな、と貴紀は感じた。
 彼の手が霜子の頭にぽん、と置かれる。霜子は気恥ずかしそうな微笑を浮かべた。そんな光景を見て二人の関係に気づけないほど、貴紀は鈍感ではない。
 霜子に恋人がいるなんて聞いたことはなかったが、桃ならまだしもその弟でしかない貴紀にそんな情報がまわってくるはずがない。霜子と話している時に恋愛話が出たことは一度もなかったから、恋人は居ないものだと思い込んでいた。それは勘違いだったようだ。
(あれはたぶん、年上やろうなあ……)
 寄り添って歩き、遠ざかっていく二人の後姿を為す術もなく眺めながら貴紀は思った。
 学校帰りの霜子が制服のままだったのに男は私服であったこと、男の髪色が染められた光沢のある茶色だったことなどが根拠だが、何となく雰囲気が落ち着いていて年上っぽかったというのが一番の決め手だ。それに、実年齢より幼いところがある霜子には年上が似合うという先入観もあったのかもしれない。
(そうなんよな……、歳の差がなあ……)
 敢えて見ないようにしてきた一つの大きな壁に正面からぶち当たられて、貴紀は思わず深いため息を吐いた。



「ただいま」
 リビングのドアを開け、肩に背負った竹刀袋と通学鞄を下ろす。やれやれ一息、と思う間もなく、キッチンから顔を出した桃が声をかけてくる。
「おかえり、ちょうど良かった。ちょっと手伝って」
 貴紀は仕方なくキッチンに入った。両親とも職を持っている野分家の夕食作りは、ほとんど桃が担当している。手伝わないと、夕食を食べさせてもらえない恐れがあるのだ。
「ハイ、たまねぎ担当。よろしく」
「………」
 キッチン台には、ご丁寧に皮の剥かれたたまねぎが一つ、包丁と共にまな板の上に鎮座している。桃はたまねぎを切って目にしみるのが嫌らしく、貴紀がいるときは必ず押し付けてくる。絶妙のタイミングだったようだ。
「夕飯、何作んの」
「親子丼。あ、たまねぎ半分でいいし」
 それなら目にしみるまでもなく切り終えられると思うのだが。とりあえずさっさと片づけてしまおうと、貴紀は包丁を取り上げる。
「そうそう、あと、霜子が泊まりに来るし、今日」
「は?」
 いざたまねぎのヘタを切ろうとしていたところへ、思いがけない台詞。刃を入れ損ね、ガツンとまな板を直撃してしまった。その勢いでたまねぎが吹っ飛び、ゴンッと鈍い音を立てて床に転がる。
「危なっ、何してんのあんた」
「手が滑った」
 冷や汗をかいたのは貴紀である。刃物を使っているときに、心臓に悪い話題は出さないでほしい。桃は貴紀の気持ちなど知るはずもないのだから、仕方がないけれど。おかげで、霜子のみならずその隣にいたあの男の存在まで思い出してしまった。
「ふーん」
 桃は腕組みをし、目を細めて貴紀を見た。
 そこはかとなく嫌な予感。けれども問い返す勇気がある訳もなく。貴紀は蛇に睨まれた蛙の気持ちで、戦々恐々、とにかくたまねぎを拾い上げ、さっさと手際よく切ってしまう。
「出来たし」
 そう言ってキッチンを出ようとする貴紀に、桃は止めの一撃を放った。
「言っとくけど、前から気づいてるから。あんたが霜子のこと好きやって」
「なっ……!」
 貴紀は今度こそ絶句した。今の行動で不審がられるのは仕方がないとしても、それまでに想いを表に出したことなどないはずだ。
 桃は肩をすくめる。
「霜子はわたしの親友。あんたはわたしの弟。気づかへん方が不思議やわ」
 食えない姉だと知ってはいたが、ここまで自分の気持ちが読まれているとは思わなかった。ここはもう開き直るしかない、と貴紀は腹をくくった。
「いつから気づいてたん?」
「んー? いつから、って言われてもなあ……明確な決め手があったわけちゃうし。何となく確信してた感じ」
 何となくで確信しないでほしい。けれども、明確な決め手がなかったということは、貴紀の気持ちは周りにバレバレというわけではなさそうだ。その点は安心できた。親友間、姉弟間の勘とでも思っておこう。
「まあ、あんたも物好きやねぇ」
 それは自分でも思わなくはないけれど。好きになってしまったのだから仕方がない。それに、彼女以上に気になる人など、今後おそらく出逢うことはない。
「……それにしても、意外やな」
 貴紀がぽつりと漏らすと、桃が「何が?」というふうに目線を上げてくる。
「俺の気持ちがバレたら、もっと姉さん逆上するかと思ってたから。霜子さんの幸せ壊す気か、って」
「よぅわかってるやん」
 からからと桃は笑う。けれどすぐ真顔に戻った。
「まあ間違いなくそうするやろね。でもそうせぇへんのは、あの人に霜子をまかせきれへんってどこかで思ってるからかな」
 あの人。
 桃は何も言及していないというのに、貴紀の脳裏には例の男の姿が浮かび上がっていた。
「あの人って、霜子さんの彼氏?」
「あれ、あんた知ってたん?」
 桃が軽く目を見開く。これは意図的に隠していたな、と気づいたがそ知らぬふりをすることにした。
「今日、駅で霜子さんが男といるの見た。彼氏っぽかったから」
「あ、そ。まあ何てタイミングのいい……」
 知ってるんやったら好都合やわ、と桃は続ける。
「あの人、去年うちの高校を卒業した人で、元合唱部。やからわたしと霜子の先輩な。尾方直行おがたなおゆき、っていうんやけど」
 腕を組み直し、桃は貴紀を真正面から見据えて言った。
「わたしは先輩より、あんたに賭けてみたいんよ、貴紀」
「俺に賭ける……?」
 貴紀は桃の発言の意図がわからなくて訊き返す。
「そう。あの人より、あんたの方が霜子を幸せにできるんちゃうかなって」
「……霜子さんは今、幸せなんちゃうの?」
 駅で見かけた二人の姿はそれこそ仲睦まじいカップルそのもので、黒い影の差す余地さえないように思われた。霜子の笑顔だって、貴紀がいつも目にしているよりいくらか可愛らしく見えた。
「幸せやと思うよ」
 桃は貴紀の質問を肯定する。しかし続けて言った。どこか苦しそうに。
「今は、な。……わたしは、それが長続きするとはどうしても思えへんのよ」
「どういうことなん?」
 霜子さんの幸せが長続きしない、なんて不吉なことを聞いては黙っていられない。しかし桃はそれには答えず、首を横に振る。
「わたしの取り越し苦労やったら良いねん。でも……どうしても不安やねん」
 桃はがしっと貴紀の両二の腕を掴んだ。そして真剣な眼差しを向ける。
「あんたやったら信頼できる。霜子のこと真剣に好きなんやったら、守ってや。あの子の笑顔が消えてしまうようなことがあったら、あんたが霜子を守るんやで」
 桃の不安の源とは何なのだろう。やはり、霜子の恋人である尾方直行という人間そのものなのか。貴紀はわからない。けれど桃が言わないのであれば、訊いてはいけない気がした。
 霜子を守ること。それは貴紀の最も大切にしたい気持ちである。
 桃の言葉を受けて、その思いはますます増した。詳細はわからなくとも、直行と霜子の関係が決して平穏なものではなく危ういバランスで成り立っているということは理解できる。貴紀がそんな霜子を支えることが出来るのというのならば、嫌がる理由などあろうはずもなかった。
 むしろ使命感に燃えていた。必ず自分が霜子を守ってみせる、と。
「わかった」
 貴紀が力強く頷くと、桃はやっと安心したように微笑を浮かべた。



「貴紀くん!」
 午後八時半、駅前。
 自転車で到着した貴紀のもとに霜子が駆け寄ってきた。
「わざわざありがとう。次のバス待つからいいって言ったんやけど……」
「別に構へんよ」
 当初、霜子は駅前から出ているバスで野分家へ来る予定だったのだが、電車との接続が上手くいかなかったのだ。次のバスが来るまで三十分以上あるというので、迎えにいった方が早いということになったのである。
 なぜ貴紀がその役を仰せつかったかというと、二人きりの時間を提供してあげようという桃の姉心から、だ。ただ桃が外に出たくなかっただけでもあるが、貴紀がその申し出を進んで引き受けたのは言うまでもない。
 霜子はまだ制服姿で、それは学校帰りに貴紀が見かけた時と同じいで立ちであった。いつまで直行と一緒に過ごしていたのか……そう思うだけで胸がもやもやとした。
「自転車の後ろ、乗れる?」
 自転車の後輪にはステップを取り付けてある。普段は二人乗りなどしないので今だけだ。
「うん、大丈夫」
「駅前は危ないし、人通りなくなるところまで歩くか」
 貴紀が自転車を押して歩くちょうど隣を、霜子が歩いている。霜子はおそらく意識せずにそうしているのだろうが、貴紀にとってそれは嬉しくもありこそばゆくもあった。
 ちらちらと霜子の方を気にしていると、視界の端にきらりと光るものがあった。セーラー服の胸元。華奢な銀色のネックレス。
 普段はつけているのを見たことがない。恋人からのプレゼントで、二人で逢う時につけているのだろうと窺えた。
 今日は知りたくもないことをたくさん知ってしまったなあ、と貴紀は思わずため息を吐く。
「どうしたん? ため息ついて」
 それを見ていたらしい霜子がすかさず声をかけてくる。まさか、貴女のせいですとは言えない。
「いや、何でもない……」
 一度は話をはぐらかそうとしたが、貴紀はふと思い直す。直行の存在を知ってしまったわけだから、いっそ開き直って霜子にもそれを知ってもらっておいたらいいのではないか、と。
「……今日の学校帰り、駅で霜子さん見たで」
「えっ、そうなん? わたし、気づかへんかったよ。声かけてくれたらよかったのにー」
 あまりに自然な受け答えに拍子抜けしつつ、貴紀は次の決定打を口に乗せる。
「いや……彼氏と一緒やったみたいやし、悪いかなと思って」
「え、あっ……!」
 途端、霜子は赤面した。
「み……見たん?」
「何が? 彼氏? うん、見たで」
「えぇーっ……もー、恥ずかしー!」
 霜子は照れ隠しのつもりなのか、貴紀の腕をぺしぺしと叩いてくる。
「そんなに恥ずかしがらんでもえぇと思うけど……」
「何か……恥ずかしいのっ! せっかく桃にも黙っててもらったのに……」
 その言葉を貴紀は聞き逃さなかった。「桃に黙っててもらった」ということは、貴紀に恋人の存在を知らせまいとしたのは桃の意思ではなく、霜子の意思だったことになる。
「もしかして、俺に知られたくなかった?」
 それなら悪いことをしたな、と思ったのだが、霜子は大げさなほど首を横に振った。
「い、意地悪で隠してたんちゃうからねっ!? ただ……何て言うか……貴紀くんは弟みたいな感じで……だから改まってそんな話をするのが恥ずかしかったと言うか……」
 ……弟か。
 貴紀は内心、がっくりしてしまった。
 霜子が貴紀に「親友の弟」以上の感情を持ち合わせていないことは重々承知していたけれども、それでもやはりショックなものはショックである。
「……怒ってる?」
 黙りこんでしまった貴紀を見て、霜子がおそるおそる訊ねてきた。上目遣いにこちらを見上げる様子を見て、貴紀はまた別の意味でため息を吐きたくなった。
 やはりこの人が――香村霜子が好きなのだ、と確信を強めてしまったから。
「怒ってへん、怒ってへん」
 貴紀は軽く笑って、霜子の頭をぽんぽんと撫でた。自分から意識して霜子に触れたのはこれが初めてだった。
 頭を撫でられた霜子は一瞬きょとんとした後、はたと貴紀の腕を取り、しげしげとてのひらを見た。
「そ、霜子さん?」
 予期せぬ霜子の行動に、貴紀は驚いて上擦った声をあげる。
「男の子のてのひらって、みんな大きいんやなあ……と思って」
 霜子もまた驚いていた。貴紀のてのひらの感触が、直行のそれと似ていたからだ。
 ごつごつしているけれどもやさしく、包み込むようなぬくもり。それは恋人に対してだけ感じるものだと思っていたのに、貴紀の仕草に同じものを感じ、鼓動が速くなった。そのことに気づき、戸惑いというか、少し決まり悪いような気持ちになったのである。
 霜子がそのままてのひらを離してくれないので、貴紀は高鳴る鼓動を気取られないかひやひやしつつ、気を逸らすため視線を空に向ける。
 すると、視界を一筋の光が横切った。
「あ、流れ星……」
「えっ、どこどこっ!?」
 貴紀の口から零れた言葉を聞き逃さず、霜子はぱっと貴紀の腕を放して空を見上げた。けれども既に流れ星は消えてしまった後だった。
「もう消えたわ」
「貴紀くんだけずるいー! 何か願い事したっ?」
「いや……そんな暇なかったし」
 腕は開放されたものの、きらきらした無邪気な瞳を向けられるのも貴紀の心臓には悪いようだ。心臓の鼓動は少しも静まってくれない。
 流れ星に願い事をすると叶う、なんておまじないがあったなあと、貴紀は霜子の言葉で思い出した。
 それなら願っておけばよかった。霜子がいつまでも幸せであるように。霜子の笑顔が消えることのないように、と。
「霜子さんは流れ星に、どんな願い事するつもりなん?」
「うーん……」
 霜子は少し唸ってから、ぽつりと呟く。
「わたしのまわりの皆が……笑っていてくれますように、かな」
 大好きな両親が。桃が、貴紀が。そして――直行が。
 霜子は無意識のうちに、そっと胸元のネックレストップに手をやっていた。
 霜子の表情がふと翳ったのを感じ、貴紀はその気を紛らわせるためにまたぽん、と霜子の頭に手を乗せた。
「そろそろ自転車乗ろか。あんまり遅いと、姉さんに怒られそうやし」
「……うん」
 貴紀のてのひらが与えるぬくもりは、やはり霜子の胸をきゅっと締め付けた。
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