スノウ・シンデレラ

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三、貴方と堕ちてゆくことを、望んでいたのかもしれない。


 照明が暗く落とされた店内にはもう誰もいない。わたしと彼の、二人きりだ。
 わたしはカウンターに置かれた白いマグカップを両手で包んで持ち上げ、あたたかいハニーミルクを啜った。これは先程、店の片付けを終えた彼の友人がつくっていってくれたものだ。震えと混乱が未だ残る身体に、しつこくない甘さが滲みわたってゆく。
「だいぶ落ち着いた? 忍さん」
 コトリとマグカップを置き、わたしはゆっくりと顔を上げて彼を見る。
 彼の慈愛に満ち溢れた視線を受けて、心は歓喜する。けれど、まだ何とか残っている良心というものがちくりちくりと痛むのも事実だった。
「うん、大丈夫……」
 口元を緩めると、彼も安堵した無邪気な笑顔を浮かべた。そして、マグカップを包むわたしの手の上に大きなてのひらを被せてきた。
 わたしはハッとした。手を引っ込めようにも、しっかりと彼の手に押さえられてしまっていて叶わない。彼の表情はまた、真摯で真っ直ぐな熱のこもったものになっていた。
 わたしは顔を伏せた。見ていられない。その瞳に焼き尽くされてしまったら――わたしはきっと戻れない。
「忍さん」
 顎に手をかけられ、わたしは彼によって顔を上げさせられてしまった。
 降り注ぐ、視線。熱い――。
「さっきの続き……。“これ以上優しくされたら”の続きを、聞かせてほしい……」
 わたしの視線は不自然なほどに泳ぐ。瞳を見つめてはいけない、それだけにとらわれていた。まだほんの少しだけ、感情より理性が勝っていたのだ。ただただ、わたしは首を横に振る。瞳を瞑って。
「俺は……君の本当の気持ちが知りたい。俺のことを、ちょっとでも想ってくれてるんじゃないかってのは……やっぱり、勝手な思い込みかな……」
 わたしの顎にかけられていた手がはずされる。途端に心細い気持ちになって、様子を窺いつつもそろそろと瞳を開いた。
 彼の瞳は、未だ真っ直ぐにわたしをとらえていた。そこに宿るのは、かすかな憂いと確かな自信。
 あぁ、敵わない。彼はわたしの想いに気づいているのだ。そう思うと少し気分が軽くなった。そして良心という崩壊寸前の壁の最後の大きな塊が、がらりと崩れ落ちたのを感じた。
「思い込みじゃ……ない、よ……」
 わたしはしっかりと彼の視線を受け止めて、そう言った。
 彼は数度、瞳をしばたたいた。そしてかすれた声を出した。
「……本当に?」
 再度の確認にわたしの心は揺れなかったわけじゃないけれど、それは崩れた壁に打ち勝つほど強いものではなかった。だからこくりと頷いた。
「忍さん……」
 息を吐き出すのと同時にわたしの名前を呼んで、彼は溢れる想いのままにわたしを掻き抱いた。はじめはおそるおそる、次第に力を込めて。
 わたしも、かすかに震える腕を上げて彼の背中を抱く。彼の体温を全身に感じた。がっちりとした広い背中を逃がすまいとすると、自分の両の手が重なり合った。
 右手の指に触れた、冷たい金属の感触。
 一瞬、我に返る。けれどもう戻れないことはわかっていた。
「……季世子……」
 わたしの下の名前を呼ぶ、彼の声も震えている。
「好きだ……、ずっと、ずっと好きだった……!」
 想い想われることは、こんなに、心臓が張り裂けそうなほどに、幸福が全身を満たすものだっただろうか。とめどなく涙が流れるほどに、苦しいものだっただろうか。
 今まで感じたことのない、際限ない感情が、わたしを酔わせる。これは運命というものではないかと錯覚させる。
 良心も体面も罪悪感も、何もかも吹っ飛んでしまって、彼が愛おしい、その想いだけで満ちてしまった。陳腐なドラマじゃないけれど、彼がずっと抱きしめていてくれるのなら、今まで積み上げてきたものすべてを捧げても、捨てても良いと思えた。
「志渡くん……」
 わたしが声を発すると、彼はそっと腕の力を緩めた。視線が絡む。けれど、今度はわたしも逸らさなかった。
 瞳を合わせたまま、彼の右手が動いてわたしの左手を二人の間に掲げた。
 わたしたちを現実に引き戻す、銀色の煌き。
「約束する」
 彼はわたしの左手の甲をさするように撫でながら言った。
「俺は絶対に、君を不幸にしたくない。俺のせいで君の立場が危うくなるのなら――潔く身を引くよ」
「そんなんっ……!」
 きっぱりとした彼の言葉は、わたしを不安にさせた。わたしは、彼の右手を両手でぎゅっと強く握る。
「そんなんいいから! わたしのことなんてどうでもいいから! 志渡くんと一緒に居たい……、わたしはどうなってもいいから……!」
「駄目だよ。……君を片時も離したくはない……、でもそれよりも、俺は君を守りたいんだ」
 わたしだけに注がれる視線は真摯で、改めて彼の想いを実感することができた。先程浮かんだ不安も、煙のように溶けていった。
 彼の冷静な物言いに感化されて、わたしの沸騰していた頭もようやく冷えて正常な思考回路が戻りつつある。
 すべてを捨てる覚悟があった。それなら、何でもできるはずだ。彼のために。わたしたちのために。
 わたしは彼の指を一本一本ほどくようにして、握られていた自分の左手を抜き出す。そして左薬指の指輪をはずし、カウンターの上に置いた。
 消えない跡。
 けれどこれは、間違いなく第一歩だ。わたしと彼のための。
「……じゃあ、こうせーへん?」
 わたしは呪縛から解き放たれた手で、彼の手を強く握りしめた。


                 *     *     *


 冷たい雨が降っている。
 喫茶店の窓際の席で外を眺めていると、傘もささずにこちらへ向かってくる影を見つけて思わず頬が緩む。
 手元の時計を見ると、午後五時二十分。あと少し残していた紙コップの中のカフェ・モカを飲み干すと同時に、入店した彼がわたしの姿を見つけてやってきた。
「ごめん、遅くなって」
「ううん、そんなに待ってへんよ。こんなに濡れて……風邪引くで?」
 わたしは手元の鞄からハンドタオルを出して彼に渡す。彼はくすぐったそうな照れ笑いを浮かべながらそれを受け取り、濡れた髪や肩を拭いた。
「行こうか」
 彼は自然にわたしの手を握って言った。雨に濡れたためにひやりと冷たかったが、まだ慣れないその行為にわたしの頬が熱くなった。
 店の軒下でわたしが持ってきた傘を広げる。それを彼がさし、ふたり手を繋いだまま歩き出す。傘は水色の細かいチェック柄だから、彼が持っていてもそれほど恥ずかしくないはずだ。
 わたしたちは、あのクリスマス・イヴに取り決めをした。
 逢うのは一週間に一度、日曜日だけ。彼が実家へ帰ってしまう二月末までの期間、この決められた逢瀬を繰り返す。バイト先ではもちろん、今までどおりに接する。これは、わたしの日常をなるべく壊したくないという彼の配慮も交えて決めた。心遣いはとても嬉しかったのだけれど、彼と逢い、惹かれてしまったその時点で、わたしの日常は既に壊れていたのだと思う。
 どんなに壊れていたとしても、狂っていたとしても、構わない。
 ほんの一時しか許されぬ関係とわかっていても、わたしは彼の傍に居たい――、それが、偽りのないわたしの心なのだから。
 いつも待ち合わせに使っている全国チェーンの喫茶店から、歩いて五分もかからないところに彼の住むアパートがある。学生専用ではないが、やはり大学の最寄り駅近くということもあり、実質的には学生の住人がほとんどを占めているらしい。三階建ての最上階、三〇五号室が彼の部屋だ。
 逢瀬の場所をここだけにすることを決めたのはわたしだ。映画を見に行ったり、遊園地に行ったり、買い物をしたり……、そういうものは望まなかった。ほんの一秒たりとも、彼とともに過ごせる時間を無駄にしたくはなかったから。わたしの身を案じてくれる彼にも、異存はなかった。
 1Kの部屋に置かれているのは、ベッドにテレビ、机にソファと、必要最低限のものだけ。でもその殺風景さが、彼らしいと思う。この部屋に来たのは四度めだ。あと四度で……彼は居なくなる。
「……季世子」
 二人分のカフェ・オレのカップをテーブルの上に置くと、彼はわたしを背後からきつく抱きすくめた。
 わたしは、彼のてのひらの上から手を重ね、頬に寄せた。誰よりも愛おしい、志渡徹史という人の紅い血液の存在を確かめる。すこし、吸血鬼の気持ちがわかる気がした。血液は、命の証。傍に留め置けぬなら、その味を我が身に刻み込んでおきたい――、そんな狂気じみた想いさえ芽生えはじめてしまうほど、わたしの心も魂も、すべて彼に捧げていた。一週間に一度しかない逢瀬であろうとも。
「徹史」
 まだ呼び慣れない、彼の下の名を呼んだ。彼の腕の中で後ろへ向き直り、胸にしがみつくように抱きついた。そうすれば、ほんの一分一秒でも余計に傍に居ることができているような気がした。
「季世子――」
 お互い抱きしめあったままで、彼はわたしにあたたかいキスをくれる。名前のあとに続くはずの、愛の言葉のすべてを込めて。わたしも彼の腕の中で少し伸び上がり、離れようとした唇どうしをまた重ね合わせる。交互にキスを交わすことで、与える愛情を等しくするように。
 そのとき、高い電子音が部屋に響いた。
 彼の携帯電話だ。
 テーブルの上に置いてあったのを手にとって開いたが、彼はそれをまた閉じてしまった。電子音は鳴り続けたままだ。
「良いん? 出なくても……」
「いいんだ。電話なんかに邪魔されたくないから……」
 そうだろう? と問いかけるように彼は触れるだけのキスをする。わたしも抱きしめ返すことで返事をした。
 そのあと、彼の携帯電話は二度鳴った。どちらも長い呼び出しだったけれど、彼は手に取ることさえしなかった。わたしは彼の腕の中で、彼の身体と溢れ出る幸福に溺れながらも、電子音が誘発する悪い予感を消し去れずにいた。




 玄関で深い抱擁をしてから、わたしたちは彼の部屋を出た。午後九時半。今から帰れば家には十時過ぎに着く。帰りが十一時に近くなると良い顔をしないわたしの両親に配慮して、彼は律儀にこの時間を守ってくれている。
「徹史……さっきの電話って……」
 わたしはどうしても気になっていたことを、エレベーター待ちをしている際に口に出した。彼はやさしい笑顔で、ぽんぽんとわたしの頭を撫でた。
「季世子は気にしなくていいんだ。……あとでちゃんとかけ直しておくよ」
 彼が答えを濁すときは、都合の悪いときだけ。だからわたしは悪い予感が十中八九当たっていることを確信した。
 きっと、あの電話は理加からだ。もしかすると、わたしとの関係を感づかれているのかもしれない。理加は聡いから。
 彼が良いというのなら、わたしは知らぬふりをしておこうと思う。卑怯かもしれないけれど、わたしが動けば動くほど、きっと理加の不審を増幅させるだけだろう。
 チン、と音をたててエレベーターの扉が開く。空の箱のなかに、手を繋いで乗り込んだ。もうすぐ離れてしまう手。あと一週間後にしか感じられぬぬくもり。
 空いた方の手で、彼は寄り添うように立っているわたしの髪を愛おしそうに撫でてくれる。彼も別れを惜しんでくれているのだと、心から感じることができる。
 再びエレベーターの扉が開く。わたしたちに許された時間の終わりを告げるには、軽すぎる音を空気に響かせて。
 雨後の冷えた風が吹きつけてきて、わたしはぶるりと身震いをした。顔に覆いかぶさってきた髪を戻そうとすると、わたしの手より先に彼の手が伸びてきてそれを直してくれた。そのまま向かい合い、立ち止まる。
 どちらからともなく視線を絡ませあう。今も時計の針は世界中同じ速さで時を刻んでいるのだろうか。此処はこんなにも、一秒がゆっくりに感じられるというのに。
 彼の手が伸びてきてわたしの背中にまわる。抱き寄せられる――そう思ったときだった。
 彼はハッと身体を強張らせて動きを止めた。わたしは怪訝に思いながら彼を見上げる。
「…………理加」
 苦しげな息とともに吐き出された名前。
 わたしたち二人にとっての禁忌。
「な……んで……?」
 理加が、背後で震える声を絞り出す。
 わたしは動けなかった。いつかこんな瞬間がくるかもしれないとは思っていた。けれどそれは思っていただけで、まったく現実味をもって迫ってはきていなかったのだ。だからこんなにも混乱している。
「なんで……? なんで季世子さんがいるの? なんで……っ」
 たたみかけるように突き刺さる問いかけ。けれどその答えはきっと、理加の中に在るのだろう。
 殺したはずの良心というものが、今さら津波のごとく襲ってくる。脚が震える。押し潰されそうになる。
「理加……っ」
「理加! 忍さんは俺が呼んだんだ!」
 本能のままに声をあげかけたわたしの声に被せて、彼が叫んだ。
「俺が……どうしても好きだって気持ちを伝えたかったから、無理矢理来てもらったんだ、それだけなんだ」
「でもっ、今……! 抱きしめようとしてた……!」
「俺が勝手にやったんだ。……ごめん、忍さん。びっくりさせたな?」
 膝を曲げて、彼がわたしの顔を覗きこむようにする。
 彼の瞳は、ひとつの固い意志をわたしに告げていた。
 わたしはかろうじて、それに頷き返す。彼はすこし、唇を持ち上げたようだった。それを見届けるやいなや、わたしの瞳からはぼろぼろと涙がこぼれおちた。
 立っていられずにしゃがみこむ。彼はわたしの背中をさすりながら言った。
「ごめん。恋人がいるって知ってたのに、こんなことして……。ごめん、本当にごめん」
 どこまでも真っ直ぐな声が、わたしの心に血を流させた。
 彼が手を引いてくれるなら、わたしは地獄の底までもついてゆくのに。一緒に堕ちてゆくことを許してくれない彼の優しさが、救いでもあり恨めしくもあった。
 けれどわたしは結局、彼が居なければ踏み出せないのだ。――ただの卑怯者でしかない。
 悲しくて、悔しくて、不甲斐なくて――。わたしはこれで最後になるだろう彼のぬくもりを感じながら、泣きつづけることしかできなかった。
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