スノウ・シンデレラ

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四、貴女との未来を、知っていたのかもしれない。


 東京は春らしい快晴だった。
 先日発表された桜の開花予想が少し早まるかもしれないと、今朝のニュースで言っていた。ゆるく吹いてくる風の冷たさも、ほとんど感じない。俺は羽織っていたジャケットを脱ぎ、傍らのスーツケースの上から掛けた。
 ホームのアナウンスが、新大阪行きひかりの到着を知らせる。
「本当に行くのか」
 暇だから、とわざわざ見送りに来てくれた大輝がぼそりと言った。
「ああ」
「ずっと連絡取ってないんだろ? 逢えるのか?」
「わからない。……けど、逢える気がする」
 あれから五年経った今でも、鮮明に思い出すことができる。美しい彼女の横顔。凛ととおる声。……あの日の泣きじゃくる姿。
 くり返しくり返しさすった、細い背中。その感触がまだてのひらに残っているようにさえ感じる。それほど、彼女――忍季世子おしみきよこの存在は俺の中でしっかりと息づいていた。色褪せることなく。ますます匂いたち。
「……まぁ、お前らしいけどな」
 そう言って大輝は笑った。
 新幹線がホームに滑り込んでくる。大輝は「あぁ、叔父さんによろしくな」と、俺の肩をかるく叩いて行ってしまった。
 俺は今月、大学卒業後から勤めた会社を退職した。そして、大学四年間を過ごした関西のあの街へ戻るのだ。
 仕事は向こうに着いてから探すつもりだったのだが、それに待ったをかけてくれたのが大輝だった。
「叔父さんのとこ、空いてると思うぜ?」
 大輝が俺と共に関東へ帰った後、新たに住み込みで入った人はもう辞めてしまっているらしい。大輝の叔父さんもまた男手を欲しがっているとのことで、俺は学生時代によく出入りしていて顔見知りだからちょうど良いと、利害が一致したのだった。
 これで働き先の心配はなくなったわけだが、先程大輝が言っていたように、本当に彼女と逢えるかどうかという一番大きな問題が残っている。
 彼女と別れなければならなくなったあの日、俺は同時に携帯電話も失くしてしまったのだ。彼女と理加を駅前まで送り、家に帰ってくる間に落としたようだった。それは、唯一残っていた彼女との繋がりが断ち切られてしまったことを示していた。
 だから俺は、彼女の消息をまったく知らない。就職は彼女自身が希望していた外食産業の会社ということは知っている。けれどあの会社を辞めていないという保証もなければ、その街に今も住んでいるという保証すら無い。
 でも俺は帰るのだ。
 彼女が今もあの街で、俺を待ってくれているという鮮少な望みにかけて。
 彼女が真実、俗に言う“運命の人”ならば、いつか何処かで必ず巡り逢えるはずだと信じて。
 高らかな音をたてて、新幹線の扉が閉まる。そうして動き出す。あの時止まってしまった二人の時間に向かって。
 俺は、心の深奥にある不安に目をそむけるようにゆっくりと瞼を閉じた。


                 *     *     *


 新幹線の最寄り駅から在来線に乗り換え、揺られること約三十分。やっと、懐かしいこの街に降り立つことができた。
 こちらは東京とは違い、春の匂いは近くないようだった。空はどんよりと曇っていて、駅前に植わっている桜の蕾もまだ固い。俺はジャケットを羽織りなおし、駅前通りを真っ直ぐに歩きはじめた。
 profondeur d'amour プロフォンドゥール ドゥアムールはここから徒歩で約十分。繁華街からすこしはずれた静かな場所にある。
 表通りの店構えは、ちらちらと変わっているようだ。大手のファーストフードや携帯電話の店はさすがにずっと居座っているが、その他の小さな店は見覚えのないものが多かった。
 その時、看板のある文字が俺の眼に飛び込んできた。


 d'amour


 あれ? と思った。profondeur d'amour が移転したとも、二号店を構えたとも聞いていないはずだけど、と思ってよく見直すと、字面がわずかに違っていた。


 destin d'amourディスティン ドゥアムール


 店名の上には Cafe とあるので、喫茶店なのだろう。貸しビルの一階に入っている小さな店だが、一目見てセンスの良さが感じ取れた。
 全体的にやわらかいクリーム色のイメージで、ふらっと立ち寄って思わず長居をしてしまいそうな雰囲気だ。入り口の脇にはテラス席が一テーブルあって、春を感じさせる桃色のテーブルクロスがかかっている。テーブルの真ん中に、水を張ったガラスの小皿にピンクの花が一輪活けてあるのが何ともお洒落だった。
 壁はガラス張りになっているのだが、レース生地のバルーンスタイルのカーテンが中のお客さんを適度に隠していて感じが良い。インテリアは薄い色合いの木製で統一されていて、桃色を基調にした小物や内装で季節感を出しているようだった。
 印象が良いので、近いうちに入ってみようと心に決めたが、どうしても店名が引っかかった。
 profondeur d'amour はフランス語で、日本語では「愛の深み」と訳すことができる。命名したのは、大輝の叔父さん――真愛まさちかさんが、最初で最後に愛した女性なのだという。大輝も詳しくは聞いたことがないようだから詳細は知る由もないが、それを聞くだけでも思い入れや意味合いが深く込められていることが推測できる。言い方を変えれば、同じような店名がこんなに近くに出来てしまう可能性は極めて低いはずなのだ。
 とりあえず真愛さんに訊いてみないといけないなと思いつつ、俺はそのカフェの前を通り過ぎた。




 荷物を置いて一息つく間もなくナイトタイムの開店準備を手伝うことになった俺は、グラス類を磨く作業をしながら先程の疑問を真愛さんにぶつけてみた。
 すると真愛さんは朗らかに笑って言った。
「ああ、あそこはうちの姉妹店みたいなもんなんや」
「姉妹店?」
「そう。今度新しく開く喫茶店に、ここの店名の一部を使わせてもらえへんかって言ってきたんや」
 distin d'amour の店長を務めている女性が、開店前のある日に訪ねてきて、そう言ったらしい。
 真愛さんは初め、案の定断ったという。深い思い入れがあるから、簡単に使わせられない、と言って。けれど彼女は譲らず、どうしても使いたいと言う。真愛さんは不思議に思って何故この店名にこだわるのかを尋ねると、彼女は淋しそうに目を伏せて、言ったのだそうだ。
「……待っている人がいるんです。運命を信じたくて……」
 真剣な眼差しで、お願いしますと頭を下げる彼女に、真愛さんは断れなかったという。
「それに……何か同じ匂いを感じたんやな、彼女に。うん、直感的に。やから、名前を貸すだけやなくて、“姉妹店”っていうことにしたんや」
 ほら、と真愛さんが prodonfeur d'amour のカードをこちらへ寄越す。写真やデザインに変わりは無いが、裏面の下部に distin d'amour の住所と連絡先が小さく付け加えられていた。
「たぶん、今日顔出すと思うし、その時紹介したるわ。えぇ子やけど、惚れんなよ?」
「惚れませんよ」
 俺は苦笑する。
 求めるのはただ一人、月の横顔を持つ彼女だけだから。
「あ、そういえば、distin ってどういう意味なんですか?」
 真愛さんは、にやりと笑って言った。
「“運命”や」



「今晩は、マスター。外、雪降ってきましたよ」
「そうですか! 今日は昼から寒かったですからねぇ」
 やって来たお客さんが、入り口で髪や肩に乗った水滴を払う。いらっしゃいませ、と声かけをすると、常連らしいそのお客さんは気軽に話しかけてくる。
「あれ、新入りさん?」
「あ、はい」
「ほら、前に俺の甥っ子がいたやろ? その友達で、今日から働いてもらってるんや」
 俺の返事が終わるか終わらないかのうちに、真愛さんが言葉を添えてくれた。
「ほう、そうですか。いつも贔屓にさせてもらってるので、よろしく」
「こちらこそ、これからよろしくお願いします」
 俺が挨拶を交わしている間に、真愛さんは既にそのお客さんのドリンクとおつまみを用意し終えていた。頼むメニューはいつも決まっているようだ。
「徹史くん、悪いんやけど表にゴミ捨ててきてくれる?」
「はい」
 厨房に入り、いっぱいになったゴミ袋をしばってゴミ箱から取り出す。新しいゴミ袋に取り替えながら、真愛さんと先程の常連さんとの会話を何とはなしに耳にする。
「そういえば、今日キヨちゃんは来てないんですか?」
「……もうすぐ十二時ですね。そろそろ来る頃やと思うんですが……」
 もう一人の常連さんを待っているのだろうかと思いつつ、俺はゴミ袋を持って勝手口から表へ出た。
 およそ春とは思えぬ白い景色が広がっている。ただ冬と違うのは、それが積もらずに溶けてしまう沫雪あわゆきであるということ。黒いシャツの袖口や手の甲に降りてきた雪の結晶は、体温ですぐに水滴と化す。
 白い吐息が、現れては消える。この寒さで、桜の蕾は縮んではしまわないだろうか。はやく春が来てほしいと思う。寒さが緩めば……、彼女との間に横たわっている時間という塊も一緒に溶けて流れてしまうように思うから。暖かい春が来れば、彼女に逢えるような気がするから。
 大きなポリバケツにゴミ袋を入れ、ぱんぱんと手を払う。さすがに雪の中シャツ一枚は寒い。早く店内に戻ろう、と思ったところに、ひとつの人影がこちらへ歩いてくるのが目に入った。
 ここのお客さんだろうか、と思いそちらに目を凝らす。
 白いコートの襟をかきあわせるようにゆっくり歩いてくるのは女性だった。艶やかなストレートの黒髪が、何故か鮮明に映る。
 雪はまだ止まない。降っては降っては、コンクリートの地面を濡らして姿を消してゆく。
 俯きぎみに歩いていたその女性は、ふと足を止めた。立ち尽くしている俺に気がついたのだ。
 俺は動けなかった。寒いという感情も吹っ飛び、阿呆のようにただそこに立っている。――予感が、した。
 彼女の顔が上向きになってゆく。切れ長の澄んだ瞳に、くっきりと俺の顔が映った。
「…………志渡、くん……?」
 めいっぱい見開かれる瞳。幻でも見たかのような表情だ。
 俺の相好は自然と緩んでいた。
「忍さん。……いや、……季世子……」
 言い直す、名前。狂おしいほどに愛しくて愛しくてたまらなかったその名を。五年間、唇に乗せることの叶わなかったその名を。
 彼女の瞳は溢れんばかりの涙を湛え、こらえきれない滴がぽろぽろとこぼれおちた。
「夢じゃないん……? ほんまに……ほんまに、志渡く……徹史、なん……?」
「ちゃんと居るよ、此処に。ごめん、遅くなったけど、迎えに来た」
 ぎゅっと彼女の手を握り、視線を強く絡ませる。
 一呼吸置いて俺の言葉を呑み込んだ彼女は、あたたかな涙を流しながらぎゅっと抱きついてきた。
「逢いたかった……! 逢いたかったよ、徹史……!」
 カラーン、カラーン、と懐かしい鐘の音。十二時になると、近くの教会が鳴らすのだ。この店で、大輝と何度も聞いた。「まるでシンデレラだな」と笑っていたことを思い出す。
 シンデレラの魔法も春の沫雪も儚くとけてしまうけれど、この腕の中の愛おしい女性ひとは永遠に消えない。
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